mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

12月21日

 「センターつうしん」69号が別冊とともに昨日で校了し、あとは27日午後の発送作業を待つだけになった。

 前号休んだ別冊も今度はつくった。休んだことに関しての反応はとくになかったが、私自身がこのまま休んではおれなかった。

 勝手に名づけた「宮城の教育遺産」が道太さんで終わりと思われては情けないし、先人たちに申しわけないことだ。過去の遺産は限られた人にしか読まれなくなったのだから、せめて入口ぐらい示す責任はあろうというもの。

 宮崎典男さんの「教師 そこまでの道」は、宮教組機関誌「教育文化」への70回の連載を終えたのは1982年。それが単行本として、あゆみ出版から出たのが84年10月だった。

 私は、教育文化連載中から単行本にすることを願っていたので、あゆみのYさんと会い、それを頼んだ。Yさんは、「今、教育書は売れなくなった。この文量は3冊分になり、分冊にすると2冊目3冊目と落ちてくるから、量を減らして1冊にまとめるのがベストと思う。であれば、つくってもいい」と言う。私はこの機会を逃したくなかった。宮崎さんに会ってもらい、Yさんの言を伝え、「急いで削ってほしい」と言った。Yさんも「ぜひ、出したいからそうしてほしい」と言った。すると宮崎さんは、「削るのは嫌だ」と言って動かない。私はあわてた。このままでは単行本化はダメになる。「宮崎さん、自分で削るのは辛いだろうから、私にその仕事をさせて!」と無理なことを言い、宮崎さんは黙った。そこでYさんが受けてくれた。そうは言ったものの私が宮崎さんの文を削ることを考えると急に頭が痛くなった。ある編集会議のあった盛岡の旅館でのことだった。

 その後、Yさんから電話があった。「いろいろ考えてみた。もうけのない仕事もそれが必要なことであれば損しても私たちはやらなければならない。だから、宮崎先生の原稿は削ることなく1冊本でつくりましょう」というものだった。私はホッとすると同時にそのまま仕上がることを心から喜んだ。

 「ああ 野麦峠」の佐久間さんについても、エピソードをひと言。佐久間さんは当時教頭だった。私が組合の教育文化部担当時、模擬学校「夏の学校」をつくった。学校なのだから、職員集団も現実の学校と同じ構成を組んだ。そのとき、校長は元校長だったが、教頭を現職の佐久間さんに頼み受けてもらったのだが、この模擬学校が新聞に載るや、佐久間さんは市教委から呼び出しを受けた。佐久間さんは辞めるとは言わなかったが、私の方からお願いして下りていただいたのだった。「ああ 野麦峠」の報告も、学校がひとつになって実践に取り組んでいることがよくわかり、教頭・佐久間さんはその記録係だったのだ。