mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

11月26日

 23日、フォーラム1「今どきの“友だち”事情」が終わった。

 初めに、4人の話題提供者(児童館勤務・中学教師・保護者・中学養護教諭)から、15分程度とこちらで限った時間の短い話をしていただいた。4人の方のお話から、今は端から見ているだけの私のもつ子ども(若者)の友だち事情に問題を投げかけられ、自分にとってはここまでで十分フォーラムをもった意義を感じることができた。しかも、それぞれの場で子どもの側にきちんと寄り添っていることの響く内容にも大いに好ましさを感じた。

 もうひとつ会を広げることができたのは、児童館のボランティアをしているAさん・東北大・宮教大の学生の参加と発言であった。全体の参加者は少なかったが、テーマの直接対象に入るかもしれない彼・彼女らの発言は、大人の思いこみ発言を相当防いでくれ、考えるべきものを残すことに大きな役割を果たしてくれたのではないかと思った。話を聞きながら、私の中に浮かんできたことを2つ3つ述べる。

 1つはまったく無関係になるが、この頃の通勤バスのことが浮かんだのだ。

 10月から敬老乗車証制度が変わり、1割負担で上限が決められた。以来50日経過したが、朝も晩も明らかに乗客の数が減り、所要時間もずいぶん短縮された。乗客数と乗降時間による。最初はスムーズな走りを喜んでいたが、このごろは乗るたびに寂しさを覚えるようになった。このことから、自分は猿と同じように群れを好むからではないかと思った。もしかするとこれは自分だけでなく、人間一般の習性なのではないか。

 つづいて浮かんだのは、3年前の宮教大での授業だ。教室のドアを開けるまで中の人声がまったく聞こえなかったが、開けると学生はちゃんといた。この時間だけかもしれないがあまりのオリコウサンに驚いてしまった。いくつもの専攻の集まりということがあるかもしれない。でも、3年生がほとんどのはずなのだ。しゃべりあいたくないのだろうか? この様子は、先のバスのことから考えた私の論とは合わないことになる。まあ、たった1時間のことだが・・。

 さかのぼって、十数年前に宮教大に行ったときなどのことなど他にも浮かんできたのだが、それらは略す。

これら思い出しから得たこの日の私の結論は、やっぱり友だち事情はずいぶん違ってきていることになる。その最大の理由は、子どもたちの前に示され、歩くように薦められている道幅があまりに狭いことからきているということ。また、魯迅は歩くところに道はできると言ったが、道でないところを歩くことを好まない大人に囲まれて育てられている子どもの“不幸”が「今どき」の事情をつくっているのではないか。多くの子は群れの習性を十分に出す広場をもてていないのだと思っていないのかもしれない、多くが狭い道しか歩くことができないのだと思い込んでいるとすれば、自分の道をつくろうとする者は同年代の中でも異端者になってしまう。