mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより27 ハナイカダ

   葉の上に花を咲かせる 珍しい植物

 「花筏(はないかだ)」という美しい日本語があります。風に吹かれて散った桜の花びらが、水面に浮かび帯のように連なって流れゆくようすが、筏のように見えることから、その風情を花筏とよんでいます。
 そしてもうひとつ、「ハナイカダ」と呼ばれる植物があることをご存知でしょうか。この植物はとても変わっていて、葉っぱの真ん中あたりに花を咲かせます。それが、まるで筏に花が乗っているように見えることから、ハナイカダと呼ばれているのです。情緒ある名を、誰が名づけたのでしょう。季節の花を人の暮らしと重ねて楽しむ心がこんな発想をうみだすのでしょうか。

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      葉の真ん中で咲くハナイカダの花(雄花)

 最初、植物図鑑で見かけたときは、こんな花があるのかと意外に思ったものです。春の野山を散策していて偶然見つけ、すぐにハナイカダとわかりました。周りの木々の姿と少しも変わりないのですが、爽やかに四方に開いた緑色の若葉の上に、花がちょこんと乗って咲いていました。常識的には考えられない花の姿がそこにありました。

 ハナイカダは、ハナイカダ科の落葉低木で、北海道、本州、四国、九州に分布しています。ハナイカダ科の植物が世界で分布しているのは一属4種、そのうちの1種が日本に自生していて、学名を「Helwingia japonica」といいます。「japonica」と入るように日本原産で、極めて珍しい植物です。宮城県内でも平地や丘陵地の雑木林、湿った谷沿いなどに自生していますが、その場で咲いていても、ひそやかに花を咲かせ実を結び、隠れ里の佳人のような存在なので、気がつく人は少ないかもしれません。

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  ハナイカダの花のつぼみ(雄花)    葉の裏にうつる花の影(雄花)

 ハナイカダは雄株と雌株とに別れています。開花期は5月~6月頃。雄花も雌花も、それぞれ葉の真ん中に花を咲かせます。花といえば、茎から花茎が伸びて花を咲かせるのがほとんどなのに、これはどうしたことなのでしょう。

 植物の進化の歴史でいうと、花のつくりは葉が進化してできたものといわれています。植物の葉と花は必ず茎から出るようになっています。
ハナイカダの花がついている葉(下の写真)を見てみましょう。葉の中心を通る葉脈(主脈)の色や太さが、茎側から花までと、花から葉の先端まででは異なっていることに気づかれるでしょう。研究者によると、これは、進化の過程で、葉のわきから出る花序の軸が、主脈と結合したためと説明されています。
 ハナイカダは、花序の軸と葉の主脈とが結合して一つになっているので、葉の真ん中から花が咲いているように見えるのです。ハナイカダは、茎から花が出るという植物界の基本ルールを破っているわけではないようです。

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  葉の中心の葉脈を見ると、花の右側と左側では、色や太さが違います。

 ハナイカダの花は、淡い緑色の小さな花です。花びらは3~4枚ほど。雄花は3~4本の雄しべを持っていて、葉の上に数個の花が集まってつきます。雌しべを持つ雌花は、ふつう1つだけつきます。まれに2つつくときもあります。

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      ハナイカダの雄花(数個)

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      ハナイカダの雌花(1つ)

 これらの花はなんと小さく地味で目立たない花なのでしょう。
 多くの花は、受粉の仲立ちをしてくれる虫をひきつけようと、花を美しく目立つようにしているのに、こんな地味な花に虫たちがやってくるのでしょうか。
 ところが杞憂でした。写真を撮っている間にも、小さな虫たちが入れ替わりにやってきて吸蜜をしていました。目立たない花でも、その花を必要とする虫たちがいるのです。自然界の生きものどうしの結びつきが多様であることに、あらためて気づかされました。

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    雌花の蜜を吸う虫たち。目立たない花でも集まってきました。 

 それにしても、ハナイカダは雌雄異株なので、雄花に集まった虫が雌花に飛んでいかなければ、受粉できません。近くに雌株はありません。探し回って、やっと2m程離れた雑木林の中に雌株を見つけました。これくらいの距離なら、受粉できる可能性はありますが、確実とはいえません。雄花に集まった虫がそのまま雌花に飛んでいくとは限らないからです。
 雌雄異株でないほうが、受粉には絶対有利だと思うのですが、ハナイカダは、自家受粉を避けてどんな環境にも対応できる丈夫な遺伝子をもつ種子を残そうとしているのでしょう。ハナイカダは多くの仲間を増やさなくても、確実に生き残れる道を選んでいるようです。

 8月にハナイカダの雌株を訪れたら、黒い実ができていました。

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    実をつけたハナイカダの木         熟した黒い実

 実は食べられると図鑑にあったので、口にしてみたらほのかな甘味がありました。中に種子が2~4個入っていました。この実を運ぶのは誰なのでしょう。甘いので鳥たちが食べると思われます。残った実は、強風で巻きあげられた葉にのって、空飛ぶ絨毯のように運ばれていくのでしょうか。
 林の中のハナイカダの木の数は多くはありません。それでも、絶滅危惧種にもならずに、命をつないできているのは、遠くに運ばれた種子たちが芽を出し、確実に子孫を残しているからなのでしょう。

 ハナイカダは、若菜が山菜として食べられていました。茎の中心部の柔らかい部分(髄)は、灯心に使われていました。ヨメノナミダ、イボナ、アズキナ、ママコナと、生活色豊かな方言も残っていて、暮らしの身近な木でもあったようです。今も、季節感を大切にする茶道ではお茶室に飾られます。

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  山地の林下に生えるハナイカダの木。大きいもので3mほどになります。

 ハナイカダは、花の色も形も、実に控え目。数も少なく目立たない花です。多くの植物は花を華やかに進化させているのに、その対極にいるのがハナイカダです。植物界は同質、異質が共存し多様性に富んでいます。存在することに意味があり、みんなつながりあって生きている。植物界のハナイカダの存在は、何か大切なことを私たちに語りかけてはいないでしょうか。(千)

◆昨年5月「季節のたより」紹介の草花

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時代の区切りに再考すること

 新年度がスタートし1ケ月。今日はメーデー。パートナーは母親連絡会の物資販売でメーデー会場へ、そしてボクは母の介護で留守番。そっして天皇の代替わりという区切りの中で、今年のゴールデンウィークを迎えた。新聞を開いてもテレビを見ても、この1ヶ月は平成の30年間を振り返る報道が相次いだ。そんなこともあって、連休中、自分の30年前を当時のノートなどで思い起こしてみた。


 1989年、昭和天皇崩御、そして新天皇の即位があり平成が始まった年は、初めて組合の専従になった年である。書架の古いファイルの中に1990年正月に行われた組合の旗開きで、当時、県教組のT委員長の挨拶レジュメがある。そこには、第1章「歴史的な激動の時を迎えている国際情勢」として、①中国・天安門事件 ②ソ連アフガン撤退・ペレストロイカ ③ベルリンの壁落ちる・東欧各国の民主化 ④南ア・アパルトヘイト運動・数100団体が大集会 ⑤チリ独裁政治に終止符。第2章には「日本の労働者は豊かになったか」として、①経済大国日本・KAROSHIが国際語 ②大企業の内部留保10年で3.12倍 ③サミット参加国で最低の社会保障・年金改悪のごまかし ④軍事費だけが突出。さらに第3章「労働界の再編成」 第4章「自民党独裁に終止符を~国民の願いを実現する時代に」 第5章「職場は今」と続いている。
 その当時は、ロシア市民が強権的支配者プーチン誕生を喜び、中国の習近平が個人崇拝体制を構築し、アメリカ市民がトランプのような問題を抱えた人物を大統領に迎えることなど30年後の世界が現在のようになっていると想像することはありませんでした。
 しかし1989年の時点でも、30年後にこんなことになるであろう「小さな芽」のようなものはあったのでしょう。しかし誰も気がつかなかった(ように思う)。それどころかボクはもっと違う、もっと将来性のある「芽」を感じ、その「芽」を育てて「大きな花」を咲かせることを願って活動してきたつもりでした。
 天下国家を論ずる力量は持ち合わせていませんが、「なぜ大きな花を咲かせることができなかったのか」、「なぜ現在のような混迷が起きてしまったのか」をボクなりに考え続けていきたいと改めて思うのでした。
 冒頭の旗開きの中でT委員長が『展望は闘いの中でこそ切り開かれる』と結んだ言葉を胸に刻んで、「令和」という「時代」を過ごしていきたい。<仁>

めーでーたい日に

 昨日から今日にかけて、テレビはどこも天皇の退位と即位の話ばかり。どのチャンネルも一緒という感じ。どうしてこうも日本は右へならえなのだろうか。こういう日は、録画溜めした番組かDVDを借りてきて見るにかぎる。

 ところでDVDはまだ出ていないが、4月初めに映画『金子文子と朴烈』を観た。見終えて思った。「韓国映画界はすごい! 恐るべし」と。その思いは、昨年の『タクシー運転手』や『1987 ある闘いの真実』を観たときにも同じように感じた。自国の軍事政権時代の負の歴史を、しかも未だ過去になり切らない出来事を正面から描き、また堂々とメジャー作品として送り出す韓国映画界。それに比べ日本映画界はどうだろうか。自国の負の歴史を描くことには極めて消極的。政治的圧力や右翼や保守層からの攻撃を気にしてなのかスポンサーはなかなかつかないようだし(自主規制ということなのかな?)、多くが自主制作・自主上映。この違いは何なのだろう。

 さて『金子文子と朴烈』、この映画を通じて2人の人生を知った。映画の舞台は、1923年の東京だ。社会主義者たちが集うおでん屋で働く金子文子は、「犬ころ」という詩に心を奪われる。詩を書いたのは朝鮮人アナキストの朴烈。出会ってすぐに共鳴した文子は、唯一無二の同志、そして恋人として共に生きる事を決める。しかし9月1日の関東大震災が、ふたりの人生を大きく変えていく。震災後、混乱の中で朝鮮人が「暴動を起こしている」「井戸に毒を入れた」、あるいは社会主義者無政府主義者が「暴動を策動、扇動している」などの流言が広がるなかで官憲や自警団によって多くの朝鮮人社会主義無政府主義者たちが虐殺されたり無差別に検束されたりした。朴烈、文子たちも検束された。社会のどん底で生きてきたふたりは、社会を変える為、そして自分たちの誇りの為に、獄中で闘う事を決意する。ふたりの闘いは多くの支持者を得ながら、国家をも揺るがす歴史的な裁判に身を投じていく・・・。

 時代背景的には、1910年の日韓併合を経て、すでに朝鮮は日本の植民地となっており、このような歴史的・時代的テーマを扱う作品は、観ているものに辛く重苦しいものになりがちだ。なかば、そういうことを覚悟して見ざるを得ないものも多い。さらに昨今の徴用工や慰安婦をめぐる歴史問題、また自衛隊機へのレーザー照射問題など両国間の政治的懸案事項が山積している。映画の描き方によっては、両国のナショナリズム対立を煽ることにも・・・。

 しかし、そんな思いや懸念は無用だったようだ。タイトルからもわかるように日本人の金子文子朝鮮人の朴烈、二人が主人公であることによって、単純な日本VS朝鮮・韓国といった対立構図でストーリーは展開しない。また歴史的テーマを扱いながらも、あくまで二人を中心にした人間ドラマとしてしっかり描かれていることが、映画全体を重苦しいものにしていない。この点で言えば、金子文子を演じたチェ・ヒソはとてもチャーミングだし、朴烈を演じるイ・ジェフンは凛々しい。金子文子と朴烈がそれぞれに生き生きと魅力的な人間として演じられていることも大きいように思う。また金子文子の残した『何が私をこうさせたか』(岩波文庫)を読むと、実際の金子文子も朴烈も社会や時代のなかで差別や偏見、不条理に辛酸をなめつつも、快活で楽天的な人間だったのではないかと思われる。

 この映画を観ながら、実はもう一つの映画『菊とギロチン』を思い出していた。というのも、こちらも関東大震災後の世界を、アナキスト集団「ギロチン社」の青年たちと、当時実際にあった女相撲の一座の女性たちが、ともに自由な世界を夢見て生きる姿を描いているからだ。こちらの映画は、この4月末にDVDとして発売されレンタルもできるので、それこそこのGW中にみてはいかがでしょうか。お薦めしますよ。

 さてさて今日も、朝も早から即位に向けての報道番組や情報番組が続いている。しばらくはまた、このような祝賀フィーバー状況が続くのだろうか。
 『金子文子と朴烈』をみたのはちょうど新年号「令和」の発表の後だった。皇室や天皇に個人的に親しさや親近感、好感を感じるのはかまわないが、同時に戦前・戦中を含む天皇制の歴史と、そのシステムの果たした役割については、改めて区別してしっかり考えていく必要があるとも感じた。
 今日は新天皇即位の日であるとともに、メーデーだってよ。忘れてた? 今日はどっちにしてもめーでーたい日なんだな。(キヨ)

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夢追い人 ~自由とユーモアの精神をもって~

 身の周りの片づけをつづけているが、本気度が足りず、いつまで経っても片づけの跡が見えてこない。時々投げ出したくなるのだが、それでも私をつづけさせているのは、とうに忘れていたものが姿を現わし驚かされることにある。そのつど、仕事は中断、当時にさかのぼってしばらくの間その時に返り、片づけは止まってしまうので喜んでばかりはいられないのだが・・・。

 次の2種の“文書”( 「『PuPaLA』の会設立のための趣意書」「会則」)にも、貴重な時間をしばらく止められてしまった。少し長いが、とにかく(読んでみてほしい)と思って・・・。(固有名詞と年度はすべて変えてある。)

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 「PuPaLA」の会 設立のための趣意書

 4月3~4日のB社教科書実践交流会に参加したわたしたちは帰途、品川の高台、原美術館近くの御殿山ヒルズモリビル内「ホテルラフォーレ東京」でお茶を飲みました。
 クルブシまでくいこむようなジュータンを踏み、空と接触しているかのような吹き抜けの下でゆったりと話し合ううちに、財政難で苦しみつづけ、明日が心配されるB社の教科書を、なんとかしてわたしたちの手で守らなければならないという結論に達しました。
 ではどうするか。カネマルの前にひざまづき、金の延べ棒をもらうのが一番早道かもしれませんが、それは、痩せても枯れても、まだ少しは潜んでいるわたしたちの良心が許しません。とすると、まったく資力のないわたしたちが、B社に輝きつづけてもらうためにとれる方法は、「夢を買う」以外にありません。
 しかし、どう考えても、わたしたち3人の力では、夢の実現にはあまりに時間がかかりすぎます。一刻も猶予を許さないB社の経営状態を考えれば、B社の教科書を愛する同志に訴えて、一緒に「夢を買う」ユメに参加してもらうことだということになりました。
 これは、一獲千金を狙う仕事であり、必ず射止めることを目的にしているわけですからそれを知った銀行マンなどに追いまくられてはなりませんし、B社をつぶそうという人間が多くいるなかで、B社を輝かそうというのですから、この計画は秘密のうちに進めなければなりません。ですから、この会は、B社の教科書を守るとともに未来のすばらしい教育を願うという世にも美しい事業を掲げながら、探偵にも気づかれてはならない秘密結社でもあります。
 詳しくは、別紙会則にあるような会になりますが、この迂遠とも思われる大事業を一日でも早く実現できるように、ぜひ趣旨に賛同していただくようお願いいたします。
 秘密を厳守しなければならない組織であるために新聞へ広告を出すこともできません。
 もし、確かな同志がおりましたらお声がけください。
 なお、わたしたちの会の成功のために、この趣意書・会則等、会に関する一切のものが人目につくことのないようにしていただきたいし、残念ながら、趣旨に賛同できかねる場合もこの秘密の計画を他にもらさないようにしていただくことをくれぐれもお願いいたします。
                           〇〇〇〇年4月

                     呼びかけ人 ◇◇◇ ◇◇◇
                           〇〇〇 〇〇〇
                           △△△ △△△

 会  則

第1条(目的)
この会は、ヒトを人にするために懸命に教科書づくりに取り組んでいるB社を「夢を買う」ことで守ろうとする者の集まりである。

第2条(事業)
毎月1回宝くじを買い、当選金を密かにB社に寄金する。(ただし、当選金が少額の場合は、次の「買い」にまわして、高額をねらう。)

第3条(会員の義務)
① 「夢を買う」ための出資金を毎月500円納入する。
② つねに確率の高い売り場を探しておき、交替で購入することを原則とする。
 (ただし、事務局に一任することはできる)
③ 会員である間は、憲法で保障されている信教の自由を犯さない範囲で、神仏を怒
  らせるようなことのないようにし、御利益を期待してできるだけ善行に努める。
④ 会に関する一切の秘密を守る。(たとえ飼い猫がすりよってきても話さない)
⑤ 購入は交替を原則とするも、その月、特別のツキがある会員がいた場合はその人
  に購入権を譲らなければならない。そのために、会員同士、自分の体調・運勢に
     ついては連絡を十分みつにする。

第4条(事務局)
当分の間は、呼びかけ人の所属するY学校におき、会員が拡大し手狭になった場合は、他に移す。

第5条(事務局の仕事)
会員状況、購入券のこと、事業内容などを報告するため、毎月1回ニュースを発行する。

付則
① 少額の当選券が出た場合については別に定める。
② 会員証をつねに携行する。
③ 発足以後は略称(PuPaLA)を用いる。
 (Purchasing Party for Lottery to Aid B Corporation)
④ 事業報告・決算報告のための総会を年に一度はもつ。
⑤ この会則は〇〇〇〇年4月より施行する。

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 「何? こんなもの! 時間のムダ!」と思われたかもしれない。まったく個人的なものゆえ、「読んでみて!」と言っておきながら、「こんなもの!」と言われても弁解の余地はまったくない。つまり個人的趣味の押し付けなのだから。それでももう少し付き合ってもらえればありがたい。

 文中のB社の教科書編集に私も関わりずいぶん苦労したので、それにまつわる事々は小さいことまでも未だに鮮明に体にはりついているのだが、この“私設応援団”のことはすっかり忘れていたので、この“文書”を発掘したときは大いに驚いた。何よりも、このアイデアと清々しく小気味のいい文章を書く若い仲間(同僚)たちと一緒に仕事をしていた日々を懐かしく思い出し、くりかえし読むうちに当時の職場の心地よさを、他の人にまで見せびらかしたくなってしまったのだ。

 検定結果を聞きに文部省(当時)に行ったとき、冒頭、教科書調査官は「1社を除いて他社はほとんど同じような作りで、その違う1社があなたたちのもの」と言う(私は少しむきになって「他と同じものであればつくりません」と言葉を返したが)。その後「不合格」の理由が延々と述べられ(1・2年生用あわせて100ヶ所以上)、「修正するのであれば75日以内に再提出するように」と言われて予定の2時間が終わった。
 私たちの込めた願いを壊したら教科書をつくる意味はない。次に呼ばれた時もまだ30数か所修正要求があり、諦めることなく修正を繰り返し、ぎりぎりの日限で、他社との違いは明確に守りつづけ、相手が諦めたのか、教科書に認定されたのだった。

 しかし、採択はもっと厳しかった(相手はそれを読んでいたのかもしれない)。結果は限りなくゼロに近かったのである。「教科書会社に営業担当は必要でない。教科書そのものが営業の役割を担うのだから」とH社長は言う。その通りだと思うが、決められている採択の仕組みのなかでは、営業の役を教科書そのものが果たしようはない。既に物差しは作られているのを承知であえてはみ出たものをつくり、しかも、現場の教師が十分に使用希望教科書を検討する場も責任も保障されていないのだ。

 あらゆる場において、権力も財力もない私たちのやれることは、相手の悪口を言うことで悔しさを紛らわすか、あとは諦めてダンマリを決め込むかぐらいである。
 教科書採択はもっと静かである。何がどうなっても騒音一つ耳にすることがない。どこかで決められたものを素直に受けて、忠実に使用しているのが当たり前になっているセカイだ。

 しかし、この私の同僚の若い仲間たちは違った。
 そこにもつ抵抗心を明るく表現し、極小の可能性に賭け、他に訴えの輪を広げようと試みたのである。
 『PuPaLA』の会に誘われることで、この教科書を見る必要が出てくる。「閲覧の場がない」という言い訳はできない。読んでみなければならない。そのうえで考えることも要求されている。長い目で考えれば、このことだけで会の意義は小さくない。
 見つけたこの2種の“文書”の他に「会員名簿」があったが、ヒミツケッシャのはずなのに、会員の中に、大手放送局の記者の名も入っていた。どこで嗅ぎつけたのか、さすがジャーナリストだ。
 その後の会の行方はどうしても思い出せない。
 ということは、ユメがユメで終わってしまったことはまちがいない。
 その後のB社のことも書くことはやめよう。

 ただひとつ、その後しばらく会っていないこの若い仲間たちのことへの想像を付しておきたい。
 これだけの知力とアイデア、そして、ヒソカナる抵抗心は容易に失われるはずはない。会は消滅しても、今も変わらず必ずよい仕事をつづけているだろうと思う。
 どんな世であっても、教師にとって必要なのは、この2種の“文書”を書かせるような力だと思う。誤解を恐れず言い切れば、教師に内在する、このような力こそ、現在の困難な職場でもよい仕事を守らせつづけるのだと思う。
 かつて教育学者の勝田守一は、「魂において頑固であり、心において柔軟、精神において活溌でなければ、この現在の困難な状況を切り抜けることはできない」と書いていたが、あの時の若い仲間たちの作った“文書”は、くだらないアソビと一笑に付されそうだが、私は大まじめに、勝田の言葉のささやかな実践と思っている。
 そう考えるゆえに、2つの“文書”は、頑固で柔軟で活溌な若い仲間たちと一緒に仕事をしたんだと、当時を振り返り胸を張りたい気持ちが大で、ぜひ読んでほしいと思ったのだ。( 春 )

季節のたより26 ヒトリシズカ

  花びらもガクもなく、白いブラシの花が舞う

 「ひとりしずか」、口ずさむと心地よい響きのする名前です。この花と初めて出会ったのは、春の林の崖地の斜面でした。開いた4枚の葉の真ん中にぽつんと1つ白い花をつけて1本咲いていました。瞑想しているような姿がその名にふさわしいと思ったのです。ところが、この花は1本で咲くことは珍しく、何本かまとまって咲くことが多いことに後で気がつきました。

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   家族のようにまとまって咲くヒトリシズカ。葉が開く前に花穂が出てきます。

 ヒトリシズカは、センリョウ科の多年草。沖縄を除く日本全域に分布し、林の中や林縁、湿った木陰に自生しています。4月末から5月上旬頃、赤茶色の小さな芽が地表に顔をのぞかせます。光沢のある葉が花を包むようにして伸びてきて、その葉が完全に開ききる前に、小さな白いブラシのような花穂(かすい)を立ち上げます。

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 伸び出す赤茶色の小さな芽       包む葉が開く頃に、緑色に変わります。

  花穂には小さな花がたくさん集まっていますが、その花は普通の花とちがっています。花びらやガクがなく、雄しべと雌しべだけの不思議な形をした花なのです。白く見えるのは3本の雄しべで、雌しべはその中にうずくまるように隠れています。さらに、花粉を生産する葯は、普通は雄しべの先端につくものなのに、ヒトリシズカは雄しべの根元についています。

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 花は白い雄しべだけが目立ちます。

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 奥の丸い形のものが雌しべ。白い雄しべの根元の黄色い粒が葯です。

 花びらもガクもないヒトリシズカは、一昔前は祖先的な花だと思われていました。最近の遺伝子を用いた研究では、花びらとガクを持った祖先の花から、それらを退化させて進化した花ではないかと言われています。
 多くの植物は、花粉を運んでもらう虫たちをよびよせるために、花びらやガクを大きくしたり色鮮やかにしたりする工夫をこらしていますが、変わり者のヒトリシズカは、雄しべを白く目立たせることで、花びらやガクの代わりにしているということなのでしょう。
 花の後には果実ができます。果実ができると、葉の蔭に隠れるように折れ曲がり、熟すのを待ちます。種が熟すと、その場にこぼれて、翌年芽を出します。秋に葉が枯れても、地下には横に這う根茎が残っているので、根茎からも芽を出すことができます。

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   上から見ても、白い雄しべが目立ちます。

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 葉は2枚対生で2対あり、         花の後の果実
  輪生した4枚葉のようです。

 ヒトリシズカの名前の由来は、ひとり静かに瞑想している様子からではなく、静御前の舞姿からきていました。
 鎌倉時代の歴史書吾妻鏡」などによると、源義経に寵愛されていた舞の名手の静御前は、頼朝による義経討伐の際に、大和の吉野山で捕らえられます。義経の居場所を厳しく尋問されますが答えず、その後、頼朝に舞を命じられて、その舞台で舞い歌ったのは、義経への想いでした。

 吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ恋しき
 ( 山の白雪を踏み分けて山の奥深く入っていってしまった
   あの人が恋しいのです。)
 
 しづやしづ しづのをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな
 (しず布を織る糸を巻くおだまきのように、
   静、静、と名を呼んだ人との昔の頃に戻りたい。)

 これが、頼朝の激しい怒りをかい処刑されそうになりますが、頼朝の妻、北条政子の温情により命は助かります。時の権力者を前に凛として立つ静御前、その舞姿に見立て名づけられたのが、ヒトリシズカでした。

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     静御前の一人舞う姿を連想させるヒトリシズカ(一人静)

  ヒトリシズカは日本古来の固有種で、万葉集では「つぎね」という古名で詠われています。その後、江戸時代の図説百科事典ともいえる『和漢三才図会』には、静御前を連想するゆえの名とあり、誰がいつ名づけたかは定かではありませんが、ヒトリシズカと名づけられたのは、この物語が人々の心を深くつかんでいたからなのでしょう。

 ヒトリシズカと同じ仲間にフタリシズカがあります。フタリシズカヒトリシズカより葉も草丈も大きく、花は1ヶ月ほど遅れて咲きます。白い花穂は、ヒトリシズカが1本に1つですが、フタリシズカは1本に2つついています。花によっては4つから5つつくときもあります。 
 フタリシズカヒトリシズカと同じセンリョウ科で、花の形はちがっていても、花のつくりは同じで、花びらもガクも持たない雄しべと雌しべだけの花です。

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 フタリシズカ。寄り添う二つの花穂。  白い粒状のものが雄しべ。腹側に葯を
 葉は大きく短い柄があります。     持ち、雌しべを抱くようにしています。

 フタリシズカの名も、能の謡曲二人静」に由来しているといわれています。静御前の霊が若菜摘みに出かけた女にのりうつり、神職に回向(えこう)を願って、若菜摘みの女と静御前の霊が、影に形の添うごとく舞う物語。
 フタリシズカの寄り添うよう2つの白い花穂が、2人の舞姿に見立てられたのでしょう。

 こうしてみると、ヒトリシズカフタリシズカの名には、歴史の波に翻弄された1人の女性の運命を、野の花にたくして語り伝えようとする庶民の思いがあるような気がしてくるのです。

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   ラショウモンカズラの花           クマガイソウの花   

 植物の名前には、ラショウモンカズラ、クマガイソウ、ベンケイソウなど、伝説や歴史上の人物の名をあてたものがあります。歴史のロマンを想像させて、古典への誘いをしてくれる野草たちです。ヒトリシズカと同様に、名前の由来にどんな背景やドラマがあるのか、当時の人々の思いなどに考えをめぐらしてみるのも楽しいものです。(千)

◆昨年4月「季節のたより」紹介の草花

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花見をかねて《緑の風》に会いに行く

 この週末は、穏やかに晴れて散歩や行楽に出かけるにはとてもいい日和でした。今年も、台原森林公園佐藤忠良さんの「緑の風」に会いにいってきました。
 去年はいつごろ行っただろうとdiaryを振り返ると、4月28日のdiaryに14日とありました。ちょうど1年前ということになります。

 ですが、昨年の写真と見比べてみるとわかるように、今年は桜の開花の時期は遅いようです。まだ蕾のものがずいぶんありました。4月に入ってから雪が降ったりと寒さのぶり返しが影響しているのでしょう。それでもこの暖かさが続けば、両日中にはずいぶんと花を咲かせることだろうと思います。「緑の風」に上がっていく階段のまわりの草木も色づいて明るく鮮やかです。

 風が強いとせっかく咲いたのに散ってしまうのではと心配ですが、みなさんもよかったら足を運んでみてください。天気がよいと気持ちいいですよ。(キヨ)

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来週も「がんばっぺ」(ひよっこ風に)

 今朝も1年生の男の子とお母さんが一緒に登校している姿を見ました。でも入学初日とは違い、子どももおとなも新しい生活に慣れてきた様子が窺えます。
 男の子は、月曜始まりの今日が金曜日で5日目、緊張もだんだん取れてきてお疲れモードのよう。朝の支度も少々遅れ気味だったんじゃないでしょうか。足取りも少しばかり重い感じです。お母さんはそんな息子の様子に少しイライラぎみ?、早くしなさいという思いが息子の少し前を早足で歩く姿と表情にじんわり感じます。
 でも、この5日間つまりは丸々1週間、緊張のなかを子どもは本当によくがんばったと思います。いやがんばったのは学校の先生も、そして親たちもですかね。みんな1週間よく頑張ったと思います。この週末はゆっくりお休み下さい。そして、また来週から「がんばっぺ」です。

 さて、来週からの「がんばっぺ」に向けてです。先日1年生の先生から「ひらがな」の指導ってどうしたらいいんだろう。何か参考になるものない? との相談を受けました。ぜひ研究センターのホームページを開いてください。
 トップページのサイドメニューに「授業のための資料室」というのがあるので、そこをクリックして下さい。そうすると「授業実践の部屋」というページが開きます。そこの最初に「ひらがなの授業(1)」というのがあります。それをぜひ開いて下さい。

 このdiaryに毎月2回、欠かさず「季節のたより」を寄せてくれている千葉建夫さんが1年生の子どもたちと取り組んだ「ひらがな指導」の授業実践記録です。ひらがなの指導方法についてだけでなく、子どもがひらがなを学ぶということ、文字を獲得するということがどういうことなのかなど、多くのことを考えさせられ、また学ぶ機会になると思います。
 なお「ひらがなの授業(1)」に続く「ひらがなの授業(2)」以降は、「授業のための資料室一覧へ」にお進みください。

 また1年生の保護者の方をはじめ一般の方も、ぜひお読みください。みなさん、自分がひらがなをどうやって読めるようになったか、獲得したか。その時のこと覚えていますか? 意外と覚えていないもんですよね。友人に《いつひらがな覚えた? 覚えた時のこと覚えてる?》と聞くと、忘れたなあとか、幼稚園の時にはもう読めてたなあ などという程度です。
 千葉さんの授業を通じて、ひらがな・文字を獲得することを追体験してみてはいかがですか。文字を獲得した自分を愛おしく感じるかも知れませんよ。