mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

教え子からの手紙 ~ 届く言葉 、つなぐ言葉~

 自分の終わりに向けて身の周りの片づけを少しずつ進めているのだが、なかなかその跡が見えない。つい最近は、手紙類の整理をしたが、読みに時間をとられてこれもなかなか進まない。そのうえ、この自分にとってだけ大事な書簡を、どうやって持ち続けていけるかを考え始めると、そのことで頭がいっぱいになり、これまで考えもしなかった課題が新たに出てきて片付けどころでなくなってくる・・・。

 これらの手紙の中には教え子からのものもたくさんある。
 かつて、県教組発行「教育文化」誌に、父親の戦地からの手紙をもとにして、教え子たちに語る形で、「戦争って何なんだろう」を十数回書き続けたことがあった。稚拙な出来だったのだが、彼らに読んでもらおうと、簡易な製本をして、主として若い教え子たちに送り届けたことがあった。十数年前である。その後感想もたくさん届き、それらもまたますます迷いを大きくさせている。
 その中に、当時、大学に在学中のE子の長い感想もあり、E子はその最後の方にこんなことを書いていた。

~~時代の流れというものは恐いものだと思います。誰もが流れに乗ろうと必死になるものです。その場に留まることは難しいことです。
 とりとめのない感想になってしまい申し訳ないです。先生と学んだ11年前は、もっとストレートな感想を書いていたでしょう。感じたままに書く、伝えることが、最近出来なくなってきた気がします。年を重ねるにつれ、どこかに軽い嘘みたいなものが混じっている気がするのです。合理的に物事を考えてしまうからでしょう。素直な自分の気持ちを伝える能力は昔の方がはるかに上です。
 今回、先生からの本をいただいて、十歳の時の自分を思い出したのです。とても感謝しています。ありがとうございます。
 昔のように自分の思ったことを伝えなくてはそのうちパンクしてしまう気がするのです。~~

 E子は一緒だった4年生のときどんな文を書いていたのか。この時の「学級だより」をめくってみた。その中にあったひとつが次の日記である。

  今日の帰りの会。先生がものすご~くおこった。せきにんを感じた。
  そうじの時間。ゆっくりのそうじ。マキは最後までふいていた。
  先生がいる。さっきおこられたばっかり。
  ジャンパーを着た。かばんを取りにゆっくり。ユウタ君がなんか言っていた。
  かばんを取る。
  ドキドキ。メグミちゃんが来て行ってしまった。
  勇気を出して 「先生、さようなら」と、教室を出て行ってもまだドキドキ。
  (明日、『おはようございます』って、言えるかな?)

 短いが、このなかには私の乱暴なことばで揺れるE子の心があふれている。
 日記は、短いセンテンスに終始し、形容句はほとんどないが、それでいて清掃時のなかでの自分の心の内が一つ一つの文に書いてある。友だちが3人登場するが、これも自分を語るためであり、それぞれの動きにもE子の心がかくれている。深く構成を考えたわけではないはずだが、なんとうまく運んでいっているのだろう。うらやましくなる。大学生になったE子が言っている「どこか軽い嘘みたいなもの」が混じっていないのだ。 

 この日記を読んで、(なんでこんなにE子を悩ませることをしてしまったんだろう)と大いに自戒。この日記に次のような返事を書いている。

 E子さん、昨日のことをこのように書いてくれてありがとう。じつは、おこってしまった後に、オレもね、とっても気分がよくなくなったんです。それで掃除も手伝わずにワープロをやっていたんです。なんか、みんなの顔をまともに見ることができなかった。おこったことを気にしてね。
 そこに、あなたが「先生、さようなら」と言ってくれたでしょう。オレは、言ってもらって、びっくりし、うれしくて、おろおろして、なんか「さようなら」を上手に言えなかった。あなたの顔を見なかったでしょう。はずかしくて見られなかったのです。あなたが教室からいなくなってから、顔を見ないで「さようなら」を言ったことがとっても気になった。あなたにすまないことをしたと思ったんです。
 だからね、あなたが今日、これを書いてきたでしょう。うんとうれしかったんだ。昨日のオレのことをE子さんに言えることができるから・・・。ありがとう。
 あなたの心を落ち着かなくさせてしまって、ごめんね。あなたの文を読んで、いつまでも帰りの会や朝の会をしないわけにはいきません。明日からまたやることにしましょう。
 でも、これからも、人の話をちゃんと聞ける人にみんながなれるように言っていくつもりです。それが一人一人にとってどんなに大事かを知っているつもりだから。
 かんしゃだなあ、E子さん、本当にありがとう。

と。それにしても、教師生活最後の年だったというのに、ヘボ丸出しの自分がなんと恥ずかしいことか。E子の方がよほどしっかりしている。こんな子どもたちに支えられて仕事を終えられたんだとあらためて思う。

 これら宝のさまざまを、そのまま置きっぱなしで遠くへ旅立つわけにはいかない。どうしよう。“終活”に思わぬ悩みを膨らまされている。( 春 )

季節のたより22 セリバオウレン

  ひっそりと咲く白い花、根茎は漢方の処方薬に

 早春の雑木林で、セリバオウレン(キンポウゲ科)の白いつぼみを見つけました。春を告げるマンサクの花が咲きだす頃に、カタクリよりも少し早くに、人に気づかれないようにひっそりと咲きだすのが、この花です。

f:id:mkbkc:20190227084216j:plain
   早春の光がさしこむ林床にいっせいに咲きだすセリバオウレンの花

 セリバオウレンは群落を作りますが、咲いている場所はさまざまです。落ち葉の下からちょこんと顔をのぞかせてる花、斜面にしがみつくように咲いている花、倒木の下から這い出るように咲いている花。それぞれが、厳しく異なる環境のなかで生きていて、多様な命の輝きがひとつの群落をつくっています。
 野山に咲く野草の群落には、公園や花壇に整然と移植された花の華やかさはありませんが、自然の営みが奏でる美しさをいつも見せてくれています。

 f:id:mkbkc:20190227084621j:plain
    雪の下から咲き出す花

  f:id:mkbkc:20190227084704j:plain
     倒木の下から這い出て咲く花

 セリバオウレンの小さな白い花は直径が1cmほど。花をのぞいてみると幾重にも花びらが重なっていてキクの花のようです。でも、一番外側に花びらのように見えるのがガク片で、その内側に小さな花びらがあって、さらに多くの雄しべが重なって美しく見せています。
 花には、雄しべだけある雄花と、雄しべと雌しべがある両性花があって、まれに雌しべだけの雌花も見つかります。花が小さく区別は難しく見えますが、花を見比べていると、しだいにその違いがわかってくるようです。

  f:id:mkbkc:20190227085424j:plain
   キクの花のような雄花(桃色を帯びているのが雄しべ)

        f:id:mkbkc:20190227085442j:plain
         雄しべ(白)と 雌しべ(茶色)がある両性花

 花が終わると、花の柄の先に放射状に広がる袋状の果実ができます。果実は最初は緑色で、熟すと赤茶色を帯びてきます。風が吹くと袋状の果実の開いた穴から種子が振り出されて、遠くへ散らばっていきます。

 f:id:mkbkc:20190227090544j:plain  f:id:mkbkc:20190227090651j:plain
  果実をつけたセリバオウレン      放射状に広がる果実の造形美

 セリバオウレンは、ちょうど小葉がセリの葉のようなのでその名があります。セリバオウレンは太平洋側や西日本に多く分布していて、日本海側に分布するキクバオウレンの変種とされています。変種は他にもあって、どれも、広義では「オウレン」とまとめて呼んでいます。

  f:id:mkbkc:20190227091513j:plain
    セリバオウレンの葉とつぼみ

      f:id:mkbkc:20190227091546j:plain
         暗い林床で目立つ白い花

 オウレンは、漢名の「黄蓮(黄連)」の音よみです。「黄蓮」は中国大陸に自生する「シナオウレン」の根茎を乾燥させた生薬で、古くから健胃、整腸薬とし処方されていました。根茎が黄色で数珠〈じゅず〉を連ねているようになっているのが名前の由来です。
 日本には奈良時代に唐の本草学とともに「黄蓮」も伝来しましたが、日本には「カクマグサ」と呼ばれていた日本固有種のオウレンが自生していました。
 平安時代の薬の辞典『本草和名〈ほんぞうわみょう〉』には、「黄蓮」の項に、和名「加久末久佐〈カクマグサ〉」と記載されています。当時の人は、この「カクマグサ」が中国の「黄蓮」と同じ薬効を持つ薬草だとわかって、処方していたことがわかります。

 「カクマグサ」と呼ばれた日本のオウレンですが、古来から自生していた花なのに、万葉集や古代の歌集には詠まれていません。
 「国語大辞典」(小学館)によると、「カクマグサ」のほかに、「カクモグサ」も〈おうれんの異名〉とありました。平安中期の類題和歌集『古今和歌六帖』に「カクモグサ」を詠んだ歌が2首ありました。そのうちの一首。

  我が宿にかくもを植えてかくも草かくのみ恋ひは我れ痩せぬべし
                        (古今和歌六貼)

 耐え忍んでいる恋のつらさを、カクモグサ〈オウレン〉の可憐な風情に重ねて詠んだ歌なのでしょう。
 その後は、カクモグサという古名は、歌に詠まれることもなく忘れ去られていったようです。明治になって、与謝野晶子の和歌に「黄蓮」が歌われているのが一首ありました。

  尼寺は女の衣の色ならぬ黄蓮さきぬ秋ちかき日に   〈常夏〉

 この歌は、「黄蓮さきぬ秋ちかき日に」と詠んでいますが、オウレンは早春の花なのでちょっと季節が合いません。季節にかかわりなく、「尼僧の衣の色ならぬ」黄蓮に、生の情念を象徴させて詠んだものと考えた方がいいようです。
 この後も、「黄蓮」を詠んだと思われる詩歌は見あたりませんでした。

  f:id:mkbkc:20190227093058j:plain
     詩歌には詠まれることのなかった小さな白き花

 オウレンの仲間の花は、小さいけれど美しい花なのに、詩歌にまったく詠まれることがなかったのは、もっぱら漢方の「生薬」として存在が勝っていたからなのかもしれません。
 昔から民間薬で胃腸薬といえば、まずオウレンを思い浮かべるほど知られていて、漢方では整腸、抗炎症、清熱作用を持つ生薬として、他の生薬と組み合わされ処方されてきました。
 奈良、平安時代の病気の治療といえば、呪術や祈りに頼っていたように思われますが、病気の治療に薬草が使われ、医療も行われていたということになります。「黄蓮」は古来より重要な「生薬」でした。
 早春の野辺に咲くオウレンの仲間は、和歌に詠まれる花ではなかったけれど、その薬草としての効果を発揮しながら、医療の進歩に貢献してきた植物であったことにまちがいないようです。〈千〉

大震災から8年 いのち・子どもと教育を考えるつどい

 毎年3月11日前後に開催してきている「いのち・子どもと教育を考えるつどい」を、今年も3月2日(土)に開催します。

 震災から8年が過ぎ、その記憶と経験をどう継承するかという課題とともに、被災地・被災校でのこれまでの実践から、被災地だけでない私たちみんなが考えていかなくてはならない課題や取り組みについて交流していきたいと思います。

 今回は、石巻雄勝町で「復興教育」と地域の復興に取り組んできた徳水博志さん(元雄勝小学校・教師)にお話ししていただきます。
 ご存じの方も多いと思いますが、徳水さんは震災後、「地域の復興なくして学校の復興なし」「子どもは地域の宝」を合い言葉に、「復興教育」に取り組んでこられました。それは、今を生きる子どもたちと向き合い、地域再生の主人公を育てることをめざしたものでした。さらに現在は、地域で「雄勝花物語」を設立し、みずから地域づくりの先頭に立って取り組んでおられます。震災を風化させず、教訓を語りつぐとともに、徳水さんの取り組みから多くのことを学び合いたいと思います。

 震災から8年
 いのち・子どもと学校を考えるつどい
          雄勝の取り組みから考える、復興教育の実践と課題 ~ 

日 時: 2019年3月2日(土) 13:30~16:00

会 場:フォレスト仙台2F  第1・2会議室

参加費:無料

内 容:◎特別報告「復興教育の実践と課題」
      報告者 徳水博志さん

                      ◎会場からの意見交流

         f:id:mkbkc:20190225084306p:plain

加藤先生の高校生公開授業を終えて

 ~ 教え子からの応答責任として ~ 

f:id:mkbkc:20190225171101j:plainf:id:mkbkc:20190225170951j:plain

 加藤公明先生の高校生公開授業が終わりました。開催に至るまでは高校生が何人参加してくれるだろうとヤキモキした時期もありましたが、ふたを開けてみれば、なんと定員30名を大きく超えて38名の参加で当日を迎えることができました。また高校の先生方をはじめ小中の先生方、また保護者の方々などにも参観いただきました。当日の運営では十分に配慮が至らずご不便ご迷惑をかけたこともあると思いますが、お許し下さい。
 改めてこの企画に参加ご協力いただいた皆さんに御礼申し上げます。どうもありがとうございました。

 さて加藤先生は、高校時代の私の恩師です。といってもクラス担任ではありませんでした。理系クラスの日本史を教える担当教師として1年間お世話になったという程度です。しかし、当時から私たち生徒をその気にさせながら考える日本史授業を実践し、また私たちもその授業を理系らしく楽しんでいたように思います。
 今回、授業を参観しながら、にわかに高校時代の記憶も蘇り、いつの間にか高校生気分に戻っていました。

  授業後に、参観していた方から加藤先生は当初予定していた通りの授業ができなかったのでは?との質問を受けました。そう聞かれて、私もそうだろうと思いました。というのも参観者に受付で渡した資料のうち、実際に授業で使われたのは1枚だけでしたから。本当は他の資料も授業で使うつもりでいたのだろうと思います。ですが、改めて考えてみると計画通りに行かないことも加藤先生の中では最初から織り込みずみ。生徒の出方次第でいかようにでも応じる構えだったのではないでしょうか。そう思ったことなどを授業の中から点描的に抜き出しながら感想をと思います。

 ◆えっ!そこから授業はじめる?

 一つは、授業冒頭での席替えです。加藤先生は会場に到着すると、しばらくして私に「生徒の席は決まっているの?」と訊ねました。生徒たちの席は、これまでもずっと会場に来た順に自分で自分の席を決めてもらうことにしてきました。誰かに決められるのではなく、自分で自分の席を決める。そこから公開授業に参加してほしいと思ってきました。学校ではないからこそ、些細ではありますが、そういう自由さから始まっていいだろうとどこかで思ってもきました。しかし、そうするとどうしても同じ学校の子たちが同じ場所に固まりやすいということにもなるのでした。でも、それは様々な学校の子たちが集まるのだから仕方ないことかなあと思ってきました。

 ですが加藤先生は、それをよしとはしませんでした。せっかくいろんな学校の子たちが集まるのに、それでは面白くない、もったいないと思ったのでしょう。自分の学校以外の生徒たちと交流し、学ぶことにこそ意味があると判断したのだと思います。授業が始まる直前にもかかわらず席決めのくじを黙々と作り出し、授業冒頭での席決めの強行に及んだのでした。見ている私は、これで授業がうまく進むだろうかとハラハラしました。予定通りの授業を行うことを優先するのであれば、あえてそのような席決めを行う必然性はなかったはずです。授業の中身に直接関わることではないですが、そういうところにすでにこだわりを持ちながら授業を考えるところに、逆に加藤先生らしさを感じましたし、また根っからの社会科教師なんだなあとも思うのでした。

 結果的には席替えは大成功だったように思います。どんな先生だろう、どんな授業が始まるのだろうかと緊張した空気が会場を、そして生徒たちをも包んでいたのですが、この突然の席替えで生徒たちの緊張は一気にほどけ和やかな雰囲気になったのですから。

◆授業は、1コマ60分なんだけどなあ~

 公開授業は、1コマ60分の2コマです。授業は、時宗の開祖である一遍の伝記を描いた絵巻「一遍上人絵伝」の「福岡の市」を扱いました。生徒たちは、その市にどのような品物を売る店が描かれているかを見つけ出し、あるいは一枚の絵巻のなかにどのような時間認識が描かれているかなどを理解することを通して、当時の人々のくらしや意識、時代イメージを作り上げていきました。

 生徒たちは、それこそちょっと見ただけでは見落としそうな描写からもイメージを膨らませて絵に描かれているお店や市の様子、これは何だろう不思議だなあと思うことなどをそれぞれに挙げていきました。加藤先生は、それらを一つひとつ取り上げながら、それが何を描き、そこからどのようなことが見えてくるのかを丁寧に生徒たちと考え応えていきます。参観している私も加藤先生と生徒とのやりとりに惹き込まれながら話を聴きました。それはそれはとても楽しい至福の時間でしたが、60分が過ぎても1コマ目の授業が終わらないのです。生徒が取り上げた一つひとつを取り上げて、《きみは、どうしてそう思ったの》《なるほどね》などとやりとりしながら、授業が終わる気配がないのです。もうこれで終わりだろうと思っていると《もうすべて(生徒が絵から見つけ出したもの)取り上げたかな。これがまだ残っていたか》などと言いながら、さらに授業は続きます。徐々にこの授業はいつまで続くのだろうと心配になってきました。結局1コマ目が終わったのは、予定時間を20分以上過ぎてからでした。

◆責任という視点から授業を考える

 授業最初の席替えにしろ1コマ目の時間の超過にしろ、計画通り予定通りの授業展開を優先しようと思えば、それはそれでどうにでもできたのではないかと思うのです。でもそうしなかったというところに、教え子の一人である今の私は、加藤先生の、教師としてのすごさを感じるのです。それを一言でいうなら「責任」という問題です。

 このDiaryで、いじめ論を展開してくれている清眞人さんは著書のなかで「責任」について、次のように言っています。

「責任responsibility」とはそもそも「応答能力response- ability」があるということを意味し、エーリッヒ・フロムがいうようにそれは本質的に自発的な能力なのであって、「誰かに対して『責任がある』と感じることは、『応える』ことができ、その用意があるという意味である」(『愛するということ』)のだ。                  ―『経験の危機を生きる』よりー

 また同様のことを鷲田清一さんも指摘しながら、さらに「ここではひととしての責任が他者からの期待に応えることとして意識されている。彼らはじぶんがなすべきことを、じぶんが何をしたいかというほうからではなく、じぶんが何を求められているかというほうから考えてきたのである」(『大事なものは見えにくい』)と述べています。

 席替えという思わぬ授業の展開に「えぇ~」と驚きの声を上げながらも応えた高校生たち、そしてその高校生が一枚の絵巻物から見つけ出した市の様子や出来事、それらへの疑問や不思議に応えることに徹して授業をした加藤先生。そこから見えてくるのは相手に応えようとする「責任」ということではないでしょうか。

 ところで今日、教師にとって誰に対する応答として「責任」を考えるかは大きな課題になりつつあるように思います。つまり教師が、その応答すべき責任の相手を目の前の子どもや生徒と考えるのか。そうではない文科省教育委員会、あるいは社会や企業と考えるのか。そういう岐路に教師たちは、いつの時代も立たされてきたのかもしれません。
 今回の加藤先生の授業は、歴史学に対する深い理解と見識、そして教材研究の大切さはもちろんですが、授業は誰にどのような責任を持つべきなのかという、そういう根本的な問題も私たちに提起してくれていたように思いました。

 加藤先生ありがとうございました。また仙台・宮城にお出で下さい。(キヨ)

5年国語『大造じいさんとがん』公開授業&検討会のご案内

 研究センターでは、定期的に授業づくりのための講座や学習会を行ってきています。
 今年度も夏から冬にかけて物語作品の読みを中心とした『こくご講座』や『算数授業づくり講座』、その時々の先生方の要望に応えての「道徳なやんでるた~る」「国語なやんでるた~る」など、具体的な教材をもとに取り組んできました。

 今回、長町南小学校のご厚意もあり、ともに学習会で授業づくりをしてきた小野寺浩之さんが公開授業を行うことになりました。授業後には検討会も行います。
 なお授業スタイルは、これまで高橋達郎さん宮城教育大学講師)と共同で追求してきた、子どもたちの「自問自答」式で行います。高橋達郎さんも参加します。

 以前から高橋達郎さんが「自問自答」による授業をされてきたのは聞いておりましたが、これまで「自問自答」の授業を参観する機会を逸してきました。自問自答と関わって思い出すのは、昨年の『冬の学習会』です。その時の講演講師だった野矢茂樹さん(現・立正大学教授)は、「質問力」こそ考える力を育てるうえで大切と話されていました。「自問自答」の授業スタイルは、この野矢さんの話とも相通じると思いました。

 年度末で忙しいときではありますが、またとない機会です。ぜひご参加下さい。

日 時 2月27日(水) 13:30~14:15(授業)
                   ※ 授業後、検討会を行います。

会 場 仙台市長町南小学校 5年4組

   (仙台市太白区長町7丁目23−1)

授業者 小野寺浩之さん 


 ※ 学校内には駐車いただけませんので、公共交通機関をご利用ください。
  (地下鉄南北線 長町南駅より徒歩5分です)

  車で来られる方は、近隣の一般駐車場や大型商業施設などの駐車場をご
  利用ください。 よろしくお願いします。

       f:id:mkbkc:20190220155505p:plain

ぜひお薦めの映画です。「あの日のオルガン」

  f:id:mkbkc:20190212113559j:plainf:id:mkbkc:20190212113847j:plain

 映画「あの日のオルガン」の上映が始まります。第二次世界大戦が終末を迎える前、戦火を避けようと全国各地で学童疎開が行われましたが、東京大空襲を予測し、当時、誰も考えなかった疎開保育園で53名の幼い子どもたちのいのちを守った、若い保育士たちの実話を映画化したものです。

 映画化を企画したのはボクが若いときに親子映画運動でお世話になった鳥居明夫さん。監督・脚本は山田洋次さんのもとで長年、助監督を務めてきた平松恵美子さん。

 こどもファーストで保育を考える当時の保育士たちと、疎開に迷う親たち、受け入れを喜ばない疎開先の住民など、見どころがいっぱい。小さい子どもたちの演技は目を見張るものがありました。そして現在の私たちの問題をも考えさせるものです。ネタバレになるので、この後は是非映画館で見てほしいです。

 2月22日から全国一斉にロードショーがスタートします。県内では長町MOVIXでのみ上映。ぜひ上映を成功させ、夏以後の地域上映会が県内各地で開催できるよう、働きかけていきたいと思います。<仁>

 『あの日のオルガン』公式サイトは、こちら

授業における小森さんの愛について ~2~

 小森さんからの愛を小牛田農林の生徒たちがどう受けとめたかは、この間のdiaryで書いた。では、なぜ生徒たちは小森さんの愛を受けとめたのだろうか。そのわけを小森さんが東大の教授だからとか顔がいいからとか、そういう小森さんの属性や特性に求めることもできるかもしれない。あるいは説明が上手だ、話がおもしろいなどということに求めることもできるだろう。しかし、それらは実は些細なことなのかもしれない。
 彼らの感想の多くは、小森さんの授業の有り様について驚き、そのことに魅了されている。そこには、まさに愛とは何かということに関わる理由があるのではないだろうか。

 鷲田清一さんの著書『大事なものは見えにくい』のなかに、「届く言葉、届かない言葉」という話がある。鷲田さんは、子どもはちゃんと話を聞いてもいないのに何度も母親に絵本を読んでとせがんだりする、それはどうしてだろうと話を起こし、子どもは話の中身が重要なのではなくて、「話の中身以上に、母親の声がじぶんに向けられているということが大事なのではないか」という。また、子どもが本当に聞きたい声は、例えば《このぐらいわからなくちゃ、できなくちゃ》というような社会からの要請や要望を背負った声ではなくて、「誰かの存在そのものであるような声、もっぱらわたしのみを宛先としている声である。そういう声のやりとりのなかで、ひとはまぎれもない〈わたし〉になる。」と。

 今日、教師が生徒たちに向けて語る声は、どんな声だろう。いつ頃からか教育・子育てが〈ひと〉を〈人〉に育てることから〈ひと〉を〈人材〉に育てることへと、異和感を感じないようにつとめながら?一字加えられた。今日の文科省の答申文書などは、それらの言葉で埋め尽くされている。そのようななかに教師の声がまぎれもなくあるのだ。

 小牛田の生徒たちが小森さんから聴きとった声は、たぶんそういう声ではない。「どうしてそう思った?」「それはなぜ?」「その心は?」と生徒に問いかける小森さんの声は、「わたしのみを宛先とする声」だ。その宛先として小森さんの声を受け止める生徒は、生徒であること以前に「まぎれもない〈わたし〉」へと変貌しているのだ。生徒たちが、小森さんの授業を「変わった教え方」「新しい授業のやり方」「独特な授業」と言うのは、そのようなことをわれにもあらず語ってしまっているように感じる。そしてその声は、宛先としての生徒だけでなく、実はクラスの中に反響し広がっている。

 鷲田さんは、先の話の最後を次のように締めくくる。

〈わたし〉を気づかう声、〈わたし〉に思いをはせるまなざし、それにふれることで、わたしは〈わたし〉でいられる。気づかいあうこと、それは関心をもちあうことである。ちなみに関心(interest)の語源は、inter-esseインテル・エッセ)、「ともにある」「相互に存在する」というラテン語のフレーズである。

 まさに、ここにあるのは愛ではないか。(キヨ)