mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

くまのプーさんが似てる? ありがた迷惑はどっちかな・・・

 Sさんから電話があった。
 「今日の『天声人語』のなかに、中国では『くまのプーさん』の映画も上映できないと書いてあったが、『くまのプーさん』って、いつかあなたの話の中で聞いたように思うが、そんな作品なのか」という内容だった。
 「なんであれが? あれこそ子どもの本の原点と思っていたが」などしばし雑談。

 電話の後、朝、斜め読みをしていたその「天声人語」を読み返してみた。その部分だけぬくと、

~~独裁の終わるハッピーエンドが見えないのが、現代の中国である。ノーベル平和賞劉暁波氏が自由を奪われたまま死亡したのが1年余り前。人権派弁護士への圧力は続いていると本紙にあった。習近平国家主席に似ている「くまのプーさん」の映画も上映できない。~~(朝日新聞2018年10月1日付)

とある。プーさんが「習近平主席に似ているから上映できない」という。

 『くまのプーさん』の訳者・石井桃子さんは、「~プーその一党を愛する子どもは、世界中にふえるいっぽうで、いまでは、プーというくまは、欧米の子どもたちのあいだでは、ほとんど不滅の存在になりつつあるといえます。ミルンの童謡も童話も、むかしむかしの、教訓的な子どもたちの読み物とちがって、はっきりした、生きている性格を、子どもの理解できる世界の中に描き出した点で、新しい時代の童話ということができます。」と書いている(「クマのプーさん岩波少年文庫あとがき)。1957年版の文庫にである。

 作者のミルンは、子どもの本の世界ではあまりにも有名だ。そして、プーさんの挿絵を描いたシェパードの絵も作品に子どもたちが作品に同化するに大きな力を発揮した。
 映画でプーさんがどう描かれたかは知らないが、岩波少年文庫の作品中にはこんな会話がある。

 「ぼくはばかだった。だまされていた。ぼくはとっても頭のわるいクマなんだ」とプーが言うと、「きみは世界一のクマさ」と、クリストファー・ロビンがなぐさめがおで言う。「そうかしら?」とプーは少し元気になり、それから、きゅうに元気いっぱいになり、「ともかく、もうかれこれ、おひるの時間だ」と言う。

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 プーさんとロビンのこんな会話は、多くの子どもの世界には普通に見られた光景と言っていい。歳を重ねても胸をキュンとさせる。己の利得のみに走っている大人の世界の一員になっている私たちもみんなくぐっているから、いくつになってもフッと思い出すときがある。それが、大人の世界の嫌らしい場面でブレーキ役にもなってくれているのではないか。

 「ぼくはバカだ」と沈み込むことが何度もある。でも「君は最高だ」と言われると、なぐさめだと思いつつも救われた気持ちになる。
 もちろん、こんな会話は映画にはないかもしれない。しかし、「くまのプーさん」は、ロビンとプーさんのこのような関係が満載の作品なのだ。

 こんなことばを国民から言われる主席だったら、どんなに風刺の効いている映画であっても、己の今を反芻したら、これまで見えなかったものが見えてくるのではないか。
 このような子どもの世界を知らない、感じることのできない主席・政治家だったら、国民にとってこれほど哀しいことはない。もちろん他人事ではない。
 わが国だって、たまにプーさんに胸をキュンとすることのない首相・政治家はゴメンだな・・・。( 春 )

学びの秋です。『2018みやぎ教育のつどい』開催します!

 毎年、この時期に行われている「みやぎ教育のつどい」を、今年も開催します。教職員や保護者、教育・子育てに関心を持つ市民みなさんが集まって、様々な思いを様々な立場から語りあい・交流し合うつどいです。
 これまでは2日間にわたって行われていましたが、今年は11月3日(土)の1日開催となります、お間違いなく。みんなで大いに学んで、実り多き秋のつどいにしましょう。ぜひご参加ください。

  2018 子どもの未来をひらく  みやぎ教育のつどい

日 時: 2018年11月3日(土) 
場 所: フォレスト仙台 2Fホール・ 会議室など ※1
     参加費:500円(学生無料)
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プログラム

【11月3日・土曜】

 〇開会行事(9:30~ )
 〇テーマ別・教科別分科会(10:00 ~ )※2

 〇記念講演(16:00 ~ ) 

(※1)マット運動の実践講座をもつ「体育教育」分科会は、午前中は宮城教育大学体育館
    会場となりますので、お気をつけください。

(※2)テーマ別分科会として行われていた「障害児・障害者問題」分科会は、今年は別日
   (12月2日・日/ フォレスト仙台)開催となりますので、お気をつけください。

   

  《記念講演》日本の教育はどこへ向かっているのか
              ~ 市場化する教育と子どもの幸せを考える ~

     講  師  鈴木大裕 さん(NPO法人SOMA副代表理事) 

  16歳でアメリカに留学。修士号取得後に帰国、公立中学校で6年半教える。
  その後、フルブライト奨学生としてニューヨークの大学院博士課程へ進み、
  教育学を学びアメリカの教育事情にも詳しい。著書に『崩壊するアメリカの
  公教育-日本への警告』(岩波書店)。
  現在は、高知県土佐町で教育を通した町おこしに取り組んでいる。

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秋のこくご講座、『手ぶくろを買いに』で発見いろいろ

 13日に行われた「秋のこくご講座」、仙台市は2学期が始まって最初の土曜日。先生たち疲れてたのかなあ? 参加者がちょっと少なくて残念。でも、少なければ参加者一人ひとりの思いや疑問を語れる機会は増えます。そんなふうに前向きに受け止めて、一回一回の会を充実したものにしていきたいと思います。

 さて今回は、「手ぶくろを買いに」の話し合いに参加しました。そして、この作品の魅力や特徴を遅まきながら改めて知りました。
 例えば、一文が長いということ。あんまり考えたことがありませんでした。一例として上げられたのは、

母さんぎつねは、その手に、はあっと息をふきかけて、ぬくとい母さんの手でやんわりつつんでやりながら、「もうすぐあたたかくなるよ。雪にさわると、すぐあたたかくなるもんだよ。」と言いましたが、かわいいぼうやの手にしもやけができてはかわいそうだから、夜になったら、町まで行って、ぼうやのおててに合うような、毛糸の手ぶくろを買ってやろうと思いました。

  ざっと作品を読んだときには、そんなこと全然気づかずにスーッと読み進めていましたが、こうしてみると確かに一文が長いです。逆にこんなに長い一文にもかかわらず、何の抵抗もなくスーッと読めてしまう自分にビックリ。俺って天才? なんてことはないですよね。みんなも同じように何の抵抗もなく読んでいるんですよね。そして、作品をそれぞれに理解し把握している。人間ってすごいなあ。でも同時に問題は、きっとそこにあるんでしょうね。長い文でもスーッと読んでなんとなくわかった気になれてしまうということに。だからこそ子どもと授業をやる前には、文のなかに出てくる助詞や接続詞など言葉の使われ方や関係などについて、少なくとも教師は理解しておくことがとても大切なのだなあと思いました。

 それから作品の情景描写の表現も素敵ですね。作品の前半部には、雪に関わって「真わたのように」とか、「しぶきのように」とか、「白いきぬ糸のように」など、目の前に雪の表情がパッと浮かびます。また作品の最後には「二ひきのきつねは森の方へ帰っていきました。月が出たので、きつねの毛なみが銀色に光り、その足あとには、コバルトのかげがたまりました。」とあります。2匹のきつねをパッと月明かりが照らし仲むつまじく歩く姿と、その足跡にたまるコバルト色の影がある質量感をともなって見えてくる気がします。と同時に、ここまで作品はずっと「母さんぎつね」と「子ぎつね」という親子の関係性で記述されてきますが、最後は「二匹のきつねは」と、対等な関係性が現れてもきます。ここらへんに、作品のもつ一つのテーマ性が見え隠れしているようにも感じました。

 さてさて会の話し合いでは、もっともっといろいろ話し合われました。今述べた母さんぎつねと子ぎつねの関係性の変化を示す表現や記述についてはもちろん、人間に恐れを抱く母さんぎつねと恐れを知らぬ子ぎつねの、それぞれの姿から垣間見える親子の思いのコントラスト。はたまた《子ぎつねは、何で人間の手ではなくて、きつねの手を出してしまったんだろう》、《過去に人間に痛い目にあった母ぎつねは、自分で手ぶくろを買いに行くことはできない。それなのに、どうして子ぎつねをひとりで行かせたのかしら》等々、これらはほんの一部です。
 ここに書いたようなことは、先生方であれば誰もが考え理解していることなのかもしれませんが、多くの発見がありました。自分ひとりでなく、みんなで一つの作品を読むって、ほんとうに楽しいなあと感じました。

 小学校で私は、「手ぶくろを買いに」を習いませんでした。大人になって、今回はじめてきちんと読みました。とてもいい作品だなあ、素敵だなあと思いました。子ども時代に、こういう作品に出会えたらどんなにいいのかなあとも。
 でも、この講座案内のDiaryでも書いたように、「手ぶくろを買いに」は、教科書ではやってもやらなくてもよい付録扱いなんですよね。それを思うと残念です。誰かやらないかなあ? 私やるよという方がいたらご連絡ください。一緒に授業づくりしませんか。(キヨ)

 なお第3回のこくご講座は、12月8日(土)に行う予定です。扱う作品は、
 6年生の「ヒロシマの歌」と、4年生の「木竜うるし」を考えています。

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市民参加の教育行政へ、いじめシンポジウム開催のお知らせ

 10月9日のDiaryで、仙台市教育委員会に常設されている第三者機関「仙台市いじめ問題専門委員会」傍聴記を書きました。

 一方で仙台市(県も)は、今いじめ防止条例の制定に向けて動き出しています。7月には「(仮称)仙台市いじめの防止等に関する条例 骨子案」を発表し、8月末まで市民からのパブリックコメントパブコメ)を募集していました。みなさん、パブコメ書きました?

 (これまでの傍聴の経験から言うと)教育委員会の会議では、寄せられたパブコメは、教育委員会事務局のみなさんが内容項目ごとに整理して会議に提出します。また、それらについて事務局側のコメントが書かれたりすることもあります。しかし、そのパブコメをもとに議論伯仲になるかというと、そういうことはほとんどありません。その後は事務局の既定路線で粛々と、若干の修正はあっても進むのがほとんどです。《市民の声を聴きました》《政策策定過程に市民参与の機会をちゃんと作りました》という、行政の市民参加のアリバイづくりに使われているというのが大方のように感じます。せっかく時間を割いて書いたパブコメもこれでは用をなしていない、勿体ないなあと・・・。市民参加の市政を言うなら、本当はこれからが肝心ではないかと思うのです。

 というのも、パブコメはあくまでも《私は、こう思います、考えます》という、個人の意見表明にすぎないからです。大切なのは、そうやって寄せられた様々な異なる意見をもとに自分の意見を相対化し、また他の人たちの意見に耳を傾けることではないでしょうか。そのことの中で課題や問題を共有したり事の本質を理解したり、市民一人ひとりが主体的に市政に参加する意識や姿勢を醸成していくことが必要に思うのです。そういう場が必要だと思うのです。そして、そのような取り組みは、パブコメが実施されるようになる以前には活発に行われていました。ある意味、パブコメ実施が、皮肉にも市民参加の市政と姿勢を後退させたといえるように思います。

 今でも鮮明に覚えているのは、県立高校の将来構想策定のときに、県庁2F講堂で大々的に行われた意見聴取会です。この時は男女共学化が大きな議論を呼んでいました。県内の男女別学を共学にするという案が出され、別学の生徒やOB・OGも交えて賛否両論多くの意見がなされました。共学化のやり取りの中では会場からヤジなども飛んだりしました。感心したのはこの意見聴取会に参加していた高校生たちです。そんな大人たちのやり取りに「自分の意見と違うからといってヤジを飛ばすのはやめましょう」と諫めたり、「僕は別学がいいと思ってこの会場に来ましたが、いろいろ話を聴いているうちによくわからなくなりました。別学がいいのかもう少し考えてみたいと思います」など、高校生たちはまじめでとても柔軟だなあと思ったものでした。当事者である高校生をはじめ多くの市民が、高校という場をどのような学びの場にしていったらよいのかを考える貴重な機会になっていたと思います。

 因みにこのような公聴会は、県では県立高校の学区のあり方や入試制度改革の検討のとき、あるいは現在は地域の県立高校の再編構想(統廃合)で、以前のように誰でも意見を言えるというわけではないようですが地域の意見を聴く場を設けているようです。他方、仙台市の方は、そのような公聴会開催についてとても消極的なようです。ここしばらく、そういう場は持たれていないように思います。そういう場をもっと積極的につくり、意見の言いっぱなしではない市民参加の教育行政を実現してほしいと思っています。

 仙台市教育委員会に期待するところ大ですが、そのような場を持ってくれるまで何もしないというわけにはいきません。ということで、当センターの所長も代表を務める「仙台の子どもと教育をともに考える市民の会」などが中心となって、今週末の20日(土)に、いじめについてのシンポジウムを開催します。私たち市民・保護者、教職員の立場から、今の学校の現状と課題、そしていじめの問題を考え合いたいと思います。ぜひご参加ください。お待ちしています。(キヨ)

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季節のたより13 イヌタデ

赤まんまと呼ばれた 淡紅色の花

 道端に淡紅色の花穂がゆれて、イヌタデの花が目につくようになりました。
 昔の子どもたちは赤い花穂を集めてお赤飯にしてままごとでよく遊んだので、赤まんまという名でもよばれています。

f:id:mkbkc:20181009224320j:plain    咲き誇るイヌタデの花。 日あたりの良い野原や道端が好きです。

「それはそうと、赤まんまの花って、いつ頃咲いたかしら? 夏だったかしら? それとも・・・・・・」と私は自分のうちの幼時の自分に訊く。その少年はしかしそれにはすぐ答えられなかった。そう、赤まんまの花なんて、お前ぐらいの年頃には、年がら年じゅうあっちにもこっちにも咲いていたような気がするね。
                (堀辰雄幼年時代・晩夏」・新潮文庫

 季節がくると、祭りのように咲く派手な花々に比べれば、いつ咲いたか誰にも気づかれないほど地味な花、でも子どもたちがままごと遊びに必要なときは、いつでも咲いているような花です。イヌタデが、赤まんまと親しみをこめて呼ばれてきたのは、そんな花だからなのでしょう。

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     風にゆれる花穂         花穂を支える細くてしなやかな茎

 イヌタデタデ科の花のひとつ、先頭にイヌがつくのは本物の「タデ」でないということで、イヌホオズキ、イヌビエのように本物とは別ものという意味。無用で役に立たないからイヌがつくと説明している図鑑も多く、それでは犬が気の毒。「徒然草」には「犬は、守り防ぐつとめ、人にまさりたれば、必ずあるべし」(第121段)とあり、犬は昔から人と共に暮らし、厳しい自然を生き抜いてきた相棒でした。一説には似て非なるものという意味の「否」(いな)が転訛してイヌになったという説もあり、こちらを支持したい気がします。

 イヌタデがニセモノなら、本物のタデは何かというと、それは図鑑でヤナギタデと紹介されている植物。「蓼食う虫も好き好き」でいうタデがヤナギタデで、このタデは葉をかむと辛味があるのが特徴。ピリッとした辛味は虫だけでなく人も好みだったようで、芽タデは刺身のツマに、葉をすりつぶし酢とだしをまぜた蓼酢は鮎の塩焼きになくてはならないものでした。イヌタデにはこの辛味がないので、イヌをつけてよばれているのです。

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1本につくたくさんの花穂        一つの花穂に咲いている花は、いつも1つか2つ

 イヌタデは淡紅色の花穂が美しく、その花穂は小さな花がたくさん集まってできています。花穂をよく見ると、淡紅色に鮮やかなのはつぼみや咲き終わった花で、咲いている花はごくわずかです。
 咲いている小さな花には5枚の花びらが見えます。ふつう花が咲き終わると花びらは色褪せ散ってしまうのに、イヌタデの花は散らずに色も残ったままです。じつはこの花びらは、がく(萼)が変化したもの。花びらに見えるがくの部分が淡紅色に色づけされているので、つぼみも花も、咲き終えた花も、いつも鮮やかに見えるのです。
 イヌタデの咲いている花は、小さくポツンと咲くので全く目立ちません。その花を目立たせているのが、つぼみや咲き終えた花で、花穂全体を淡紅色に染め上げて、いつもたくさんの花が咲いているように見せかけています。
 美しい花穂に誘われて虫たちがやってきます。でも、咲いている花は小さく数少ないので迷うのでは。そう、考えたかのように、イヌタデは花びらに見えるがくの部分を少しだけ白っぽく変化させて、見つけやすいようにしています。

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     イヌタデの作戦は上々、花穂のまわりにはいつも虫たちが集まっています

 イヌタデがいつもたくさんの花が咲いているように見せかけ、じつは少しずつ花を咲かせているのは、虫たちを今咲いている花に集中させて、一つひとつの花の受粉を確実にさせるためなのでしょう。
 晩秋にイヌタデの葉は紅葉し草紅葉となります。その頃には花穂にたくさんの黒い種子ができています。手で触ってもむとパラパラと地面にこぼれるほどです。落ちた種はその地でまた新しいたくさんの命を育てていくことでしょう。

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咲いている花と熟した黒い種子   晩秋、草紅葉が始まるころのイヌタデ

 庶民の暮らしの中で、赤まんま(赤飯)は祭りや祝い事に炊く貴重なもの、ふつうに口に入るものではありませんでした。でも子どもたちの世界では、イヌタデを赤まんまにして、いつでも食卓にあげることができました。花穂全体を淡紅色に保ち続けるというイヌタデの子孫を残す知恵が、昔の子どもたちの赤まんまへの憧れとぴったり重なっていたということです。
 今は飽食の時代、子どもたちのままごとも和食、洋食とりまぜて様変わり、イヌタデの名はそのまま残っても、長く親しまれてきた赤まんまという愛称は、しだいに古語になってしまうのかもしれません。(千) 

秋のこくご講座 今週土曜日(13日)開催です!

 仙台の小中学校は2学期制なので、先生方は1学期が終わって、ちょっと一息ついているところでしょうか。それとももう明日から始まる2学期に備えて、すでに忙しくされているでしょうか。学期の終わりと開始がこんなに近いと、実際はホッとする暇もないという気持ちの方が強いかもしれませんね。

 さて、すでにホームページや、Diaryでお知らせしておりますが、今度の土曜日(13日)に、秋のこくご講座を開催します。実り豊かなこれからの授業づくりに役立てていただければと思っています。ぜひ、ご参加ください。お待ちしております。

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傍聴これだけ? 仙台市いじめ問題専門委員会

 2017年の4月に起きた仙台市の中学生いじめ自死については、現在、仙台市教育委員会に常設されている第三者機関「仙台市いじめ問題専門委員会」が、学校関係者からの聞き取りを含め調査検討中です。

 実は今月初めの10月2日(火)19時~、第10回会議が開催されたので傍聴してきました。同会議は非公開だとばかり思っていたのですが、第9回から公開を前提に傍聴の案内もしているようなのです。

 これまでもいじめ自死に関わる会議が夜に行われたことは何度かありましたが、夜の会議の傍聴はやはり疲れますね。運営する教育委員会の方たちはもっと大変だと思いますが・・・。ただ子どもたちのいじめ自死について、多くの保護者や市民にも一緒に考えてもらう。そういう場を設けようと思うのであれば、通常の平日昼間以外の日程や時間で行うことも必要なのかもしれません。教育行政の施策策定過程などに保護者や市民も参与する機会を設けることは、ずいぶん前から文科省も奨励してきたことです。やっと仙台も重い腰を上げて、その気になり始めたということかもしれません。些細なことですが、こういう変化も市長が変わったこととも関係あるのでしょうか? そのあたりはわかりませんが、こういう市民参加の機会を広げる方向で市政が動くのはいいことだなと思います。

 そう前向きにとらえ、疲れた体にムチを打ち打ち傍聴に出かけたのですが、残念ながら傍聴は会議の冒頭だけ。勇んで行ったのですが、肩透かしを食らう形になりました。ですから、ここで報告するような中身は残念ながらありません。
 それでも何か報告してよと言われるなら、できるのは報告・協議事項の(1)「前回会議における議論について」ぐらいのものです。ここでは、答申に向けスピードアップしていきたい。そのために全員参加ではなく1人欠席でも、会議を開催するようにしスピードアップを図りたい。現在は月1回のペースだが、できれば月2回も。しかし期限を決めることで拙速な答申になってはよくないので、答申の期限は決めない、などが報告されました。ちなみに、前回の会議における調査の分析や整理については、非公開部分のために報告はありませんでした。

 基本的には傍聴を認める方向にしたものの、傍聴者はやはり好まれざる客人かな?との印象を持ちました。ただし、そのような状況を忍びない、申し訳ないと思われたのでしょうか。委員長の川端さんに発言を促された副委員長の大塚さんは、まるで傍聴者の私たちに語り諭すように、《これからは、答申に向けての議論となるので公開できることは限られるから、傍聴は制限されることが多くなるのではないかと思う。理解してほしい。》と、述べていました。公開の難しさも理解しますが、いじめの問題をみんなで考えていくために、少しでも内容を含め公開する方向で努力していただければと思いました。(キヨ)