mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

ファシズムの初期警告と私たちの国

新年度がスタートして早1ヶ月が過ぎ、5月に入りメーデー憲法記念日と大きな集会がいつものように、しかし少しずつ参加者の中に会ったことのない顔が見られる。うれしい変化といえる。ゆっくりではあるが世代交代が進んでいると思える瞬間でもある。

この連休中に読んだものの中で、かなり驚いたものを紹介したい。
ファシズムの14の初期警報』がそれである。これは米国の政治学者・ローレンス・ブリットの言葉。ワシントンにある「ホロコースト記念館」に展示されている警報だ。
(1)強大で執拗な国家主義の宣伝
(2)人権の重要性の蔑視
(3)団結のための敵/スケープゴートづくり
(4)軍隊の優位性/熱烈な軍国主義
(5)性差別の蔓延
(6)マスメディアの統制
(7)国家の治安への執着
(8)宗教と支配層エリートの癒着
(9)企業権力の保護
(10)労働者の力の抑圧もしくは排除
(11)知性と芸術の軽視と抑圧
(12)犯罪取り締まりと刑罰への執着
(13)縁故主義汚職の蔓延
(14)不正選挙

 さて、この14の警報を一つひとつ日本にあてはめて見つめていると、恐ろしくなってきた。その多くが日本のことを指摘していると思えてならないからだ。「もり・かけ問題」「自衛隊の日報問題」をはじめとする数々の隠蔽・ねつ造の「問題」というよりは「事件」。そして「憲法改正」や「秘密保護法」「安保法制問題」など、取り上げ出すと切りが無い。

 世代交代をいっそう広める仕事は急を要すると改めて思う5月の連休であった。

                                 <仁>

憲法記念日を前に平和について ~『持論時論』から ~

 先月4月20日(金)の河北新報「持論時論」に、春さんの投稿が掲載されました。すでに読まれている方もあると思いますが紹介します。

     憲法9条改正 不戦の誓い  主体性大切

 自民党憲法改正推進本部が3月22日、憲法9条について、戦争放棄の1項、戦力不保持を定めた2項を維持しつつ、自衛隊の保持を新たに明記するという改正案を固めた。安倍晋三首相によれば、自民党は「改憲を党是としてきた」そうだから、森友学園問題などで揺れているとはいえ、「安倍1強」と言われる今こそチャンスということなのだろう。

 不戦を誓った憲法の前文は「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と結ばれている。施行以来70年、私たちは、この憲法に掲げた世界に誇るべき誓いにどれだけの力をかけてきたろうか。このような憲法を持っていることをよろこび、その下で平穏に暮らしながらも、前文に書きこまれている決意・誓いを自分も体するよう意識的に生きてきただろうか。振り返ってみると、私は胸を張れない。

    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇

 9条は、改憲の仕方次第で「戦争」につながる条文だ。私は戦争で父を亡くし、戦争を少しは知っているのだが、9条改憲の動きに対して「困ったものだ」とただ頭を抱えていた。戦争を知らない世代が増えており、改憲への抵抗感が薄れているという危機意識を持つ人は少なくない。だが、それだけでとどまっていては、早晩、憲法は大きく変質させられてしまう恐れがある。

 もやもやした気分が続いていたが、最近、児童文学者の清水真砂子さんの次のような文を読んだ。

 「・・・私たちは、平和が生きのびられなくて戦争をおっぱじめるんじゃないか。やがて私はそう思い始めました。平和を生きのびることができるならば、もしも、経済問題も民族問題も賢く解決して、なんとか平和を生きのびることができるならば、たぶん戦争を起こさなくてもすむのではないか。体験を伝えるだけではとても戦争をふせぐことはできないだろう、と思い始めたのです」(『日本人のこころⅡ』所収)

 当たり前のことと思われるかもしれないが、私には大変新鮮な言葉だった。清水さんは「とにかく平和を生きのびることなんだ。それが戦争をふせぐ』と言う。平和を生き延びる。私は使ったことがない言葉だ。でも、その言葉の響きに切迫感を感じる。辞書は「生き延びる」の意味を「命にかかわるような危ない状況を切り抜けて命を保つ」(大辞林)と説明している。平和を生き延びることは簡単ではなく、極めて主体的な行為なのだ。

 ◇    ◆    ◇    ◆    ◇

 日本国憲法は「恒久の平和を念願し」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」つくった平和憲法である。私たちは一人一人が平和を生き延びようと努める責任を負っている。言葉を変えれば、常に平和を考え続け、守り続けなければならない。それができるかどうか、私たち国民が直接問われている。私たちが「何事もない」と感じ、「何もしない」のでは平和を生き延びることはできないのだと、深く心に刻んで日々を過ごしたい。

 春さんの投稿を打ちながら、谷川俊太郎さんの「平和」という詩を思い出しました。

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  谷川さんは、平和は空気のようなもので、退屈で、素っ気ないと言う。そうなのだ。平和は目に見えるわけじゃなし、何か楽しいことを提供してくれるわけでもない。ねえねえ平和~  と甘く囁いたからと言って、振り向いてくれるわけでもない。素っ気ないのだ。
 そこで谷川さん「平和って何!」と語気を強めて迫ると、平和は土だなあ、唇だな、汚れた下着だな、古い額縁だななんてよくわからないことを言う。その心は? えっ何々? 谷川さん聞かせてよ。

 きっとそのことが問われ、求められているのだろう。春さんがいう「平和を生き延びるために」必要なことにもつながっているのではないだろうか。そんなことを思った。( キヨ ) 

台原森林公園へ、忠良さん舟越さんに会いに行く

 ちょうど去年の今ごろ、台原森林公園のところにある佐藤忠良さんの「緑の風」をdiaryに載せました。そのことを思い出して、今年の「緑の風」をと思い、会いに行ってきました。

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 写真は、4月14日に撮ったものです。昨年の写真は16日のもの。変わりばえしないじゃないと思われるかも知れませんが、今年は、ニュースなどでも言われていたように昨年よりサクラの咲く時期は早かったようです。台原森林公園の他のサクラの木は、もう散り始めていました。

 忠良さんの「緑の風」をdiaryに載せるときは必ず!と思い続けてきたのが、舟越保武さんの「茉莉花」の像です。舟越さんは、忠良さん同様に日本を代表する彫刻家のお一人ですが、2人は若いときからの盟友です。その舟越さんの「茉莉花」は、地下鉄台原駅を降りて森林公園へ向かうと、台原側入り口の正面で迎えてくれます。端正で静謐な表情と美しさを持っています。

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 台原森林公園の南側入り口(児童広場)に舟越さんの「茉莉花」、北側の高台(記念広場)に忠良さんの「緑の風」といったぐあいに、台原森林公園を南と北で挟み込むようにして2人の像が建っています。そして、その間には(台原側入り口~旭ヶ丘~黒松側入り口にかけて)、お二人とも親しくされていた岩野勇三さんの「牧歌」や、柳原義達さんの「平和とやすらぎの広場」(道標・鳩)などの作品があります。

 どうです? 台原森林公園なかなか素敵でしょ。ゴールデン・ウィークに足を運んでみてはいかがですか。今はサクラ満開から新緑満開へと、忠良さんや舟越さんの芸術の美しさに、自然の織りなす美しさも花を添えています。(キヨ)

議論はいろいろあるけれど、PTAすごいじゃん!

 ゴチャゴチャの書棚をかき回していたら、B6版51ページの手作りの冊子が出てきた。表紙には、「なぜ少年たちは事件をおこしたか」の表題で、「女子高生監禁殺人事件から」の副題。主催「五校PTA講演会」として<山田中・人来田中・人來田小・太白小・上野山小>との文字が散らばる。講演会の報告書である。
 それだけを眺めているうちに、この講演会についての様々なことが浮かんできた。1991年2月2日だったので、28年前のことになる。

 前書きの中に、実行委員長のFさんが、「振り返ってみると、昨年の秋、上野山小PTAから山田中PTAに、『中学校の子どもたちの一部が荒れている。PTAとして何か共同でやれないか』という相談があり、その中から、講演会を開いて、まず親が学習しようということになりました。講師に横川さんが決まってから,『二つのPTAだけの取り組みに終わらせるのはもったいない。山田中・人來田中学校区の五つのPTAで取り組めないか』ということでいろいろ相談した結果、最終的に五つのPTAで実行委員会を作り、山田中・人來田中学区青少年育成連絡協議会の協賛を得て、開催に至った次第です。」と書いていた。

 講師には、横川和夫さんを頼んだ。横川さんは共同通信社論説委員編集委員で、学校や家庭から疎外された少年少女の取材を意欲的につづけ、スタッフで取り組んだ女子高生監禁殺人事件「かげろうの家」(共同通信社刊)では第1回ルポルタージュ大賞を受賞している。
 横川さんは、こちらの事情と日程に合わせやりくりして会場の山田市民センターまで足を運んでくれた。当日の参加者は600人を超え、何度も山田中から折り畳み椅子を運び続けたのだった。

 講演の内容に入るまでを長々と書いてしまった。どこまでつづくかわからないので、あとは止めることにするが、2つのことだけ、添えておきたい。

 1つは、5つのPTA共催で講演会をもてたということを私は、自分の中で今でも誇りに思っているということ。5校PTAが共催した意味は測ることができぬ大きさがあったのではないかと思うのだ。まあ、自分だけでもそう思いたい・・・。
 もう1つは、横川さんが、話の初めに、「事件に潜む8つの問題点」として挙げたものの第1番目は、「偏差値中心の歪んだ学校教育と高校中退、そして中退した後の若者たちの仕事の問題。わかりやすく言えば、勉強ができるかできないかということだけで子どもをみる人間観の問題」をあげていること。
 後者については、これ以後30年近く経った今も変わりはないどころか、ますますこの傾向がエスカレートしているのではないか、と思う時、このまま見過ごしていたらどうなるのだろうと心配でしようがないので、あらためて考えてみたいと思う。

 この講演記録を手作りで増刷し、読んでもらうようにしようかなあとも考えている。( 春 )

教育講演会のご案内~ 学習権と教育の課題 ~

 民主教育をすすめる宮城の会主催で、当研究センターの運営委員もしていただいている宮城大学山岸利次さんが講演を行います。ぜひご参加ください。

 詳細は以下のとおりです。 

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 教育講演会
   学習権と教育の課題
           ~ 今、めざしたい ❝教育の質❞ とは ~

   日 時:4月28日(土)14時~16時

   ところ:フォレスト仙台2F 第1・2会議室

                  (資料代:300円)

 ※ 講演に先立って13時~ 民主教育をすすめる宮城の会 2018年度総会
   を行います。

   学習権とは、
   読み書きの権利であり、
   問い続け、深く考える権利であり、
   想像し、創造する権利であり、
   自分自身の世界を読み取り歴史をつづる権利であり、
   あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
   個人的・集団的力量を発達させる権利である。
          (1985年3月 ユネスコ学習権宣言から) 

 現代社会には、貧困格差や文化的社会基盤の脆弱さなど、子どもたちの成長を阻害する要因が広がっています。
 そうした中、教育行政からは「学力向上」や「いじめや不登校への対策」と称して、いろいろな施策が打ち出されてきています。
 果してそららは、どれだけ子ども一人ひとりの成長によりそい、先の学習権を保障することにつながっているのでしょうか。
 また、子どもたちの学習権を保障することと一体の教師の「教育の自由」もどんどん狭められています。
 今日的課題に向き合い、今、ここから、教育の質をどう高めていけるのか、そのために何が必要か、ともに考えあいたいと思います。(チラシ 案内文から)  

   
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季節のたより2 カタクリ(その2)

  花ひらくまでの試練

 カタクリの芽生えのときの、あのきゃしゃな芽は、どうやって雑木林の地面を突きぬけて出てくるのでしょう。その生命力の不思議さに驚くばかりです。

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 カタクリが芽生えて花が咲くまでも、多くの試練が待ち構えています。風雨にさらされるのは当然のことですが、ある年に、せっかくつぼみをつけたのに、大雪になった日がありました。雪が降り続いても、カタクリはつぼみを下向きにして、雪にうもれて耐えていました。

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 雪がとけて、やがて陽が照りだすようになると、何事もなかったように花ひらきました。

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 雑木林はコナラやブナの落ち葉がたくさん積もっています。この落ち葉を突きぬけて、カタクリは芽を出すのですが、突きぬけた葉を振りはらえずに、そのまま大きくなっているのも見かけます。

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 つい、取り除いてやりたくなるのですが、手助けしないのが自然界の掟。じっと見守るしかありません。落ち葉に何の罪はなく、ただそこに降り積もっただけ、カタクリもそれとは知らずそこに芽生えただけ、その偶然のかさなりが自然のいとなみなのです。

 多くのカタクリは生長しながら自力で落ち葉から抜け出します。でも、どうしても振りはらえずに、つぼみをつけたカタクリがありました。

 そのカタクリが、ある晴れた日、花を咲かせました。

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 自由を奪われながらも、凛として咲いているその姿に、野に生きるカタクリの矜持を見る思いがしました。(千)

季節のたより2 カタクリ(その1)

  花ひらくまで 7~8年

 仙台市青葉山カタクリの花はそろそろ終わりのようですが、県内の高山ではこれから咲き出すところもあるので山歩きが楽しみです。
 里山の雪解けを待ちかねたように芽を出し、急いで花を咲かせ実をむすび、わずか2ヶ月あまりで地上から消えてしまう草花たちを、スプリング・エフェメラル(春のはかない命・妖精)と呼んでいますが、その代表は何といってもカタクリの花でしょう。

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 翼のような2枚の葉の間から、一本の花茎を出し、その先にピンクの6弁の花を一つだけ咲かせます。万葉集で家持が「かたかごの花」と歌に詠んでいますが、好天の日に花弁を天にそりあげるように咲く姿は、ちょうど傾いたかごのよう。「カタクリ」は、この「かたかご」が語形変化したものといわれていますが、クリ林を好んで自生し、その葉がクリの子葉に似ているからと言う説もあるようです。

 山道で咲くカタクリの花は一本でも美しく、まして咲き誇る群落の景観は、「春の妖精」といっても過言ではないでしょう。

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 花の終わり頃、群生地で、種子の殻を被った糸状のものが、約10センチほど伸びているのを見つけました。後で調べたら、まったく想像していなかったカタクリの芽生えの姿でした。

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 2年目、その場所で一枚の細い葉が生えて、3年目は少し幅広い丸い葉が育っていました。 
 カタクリが育つ林床に陽がさしこむのは、木の葉が広がる前の2ヶ月ほど。そのわずかの期間に、カタクリ光合成して翌年に育つ分だけの栄養を球根に蓄えなければなりません。毎年、すこしずつ一枚の葉を大きくしながら生長し、球根が大きくなって初めて2枚の葉になりつぼみをつけます。河野昭一博士の研究では芽生えから7~8年目でやっと花を咲かせると報告されています。

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 花が咲くとすぐに実を結び種になります。雑木林が緑の葉でつつまれ、林床に光がささなくなると、カタクリの地上部は枯れて、球根は来春まで地下で休眠します。
 カタクリは、1年のうちのわずか2ヶ月ほど、めぐる季節の、早春の時期を選んで、そのいのちを輝かせているのです。

 教室で、カタクリの花を知っている子がいたら、「〇〇さんが赤ちゃんで生まれたときに、カタクリも芽を出し、2年生に進級する頃に、やっと花を咲かせるんですね。」と話してみてはどうでしょう。カタクリの花への親しみがよりわいてくるのではないでしょうか。(千)