mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

第5回 いじめ問題再調査委員会を傍聴して

 1月20日(土)開催の会議を傍聴してきました。傍聴者は途中で出入りがあったりするので正確な人数はわかりませんが、30人前後はいたでしょうか。前回よりも多くの方が傍聴されている印象を受けました。

 さてこの日も、午後5時から9時までという長丁場の会議でしたが、前半はいじめ自死当時に南中山中学校に在籍した教職員からのヒアリングの報告、後半は仙台市教育委員会(市教委)が執り行った第三者機関「いじめ問題専門委員会」の調査結果について、市教委へのヒアリングが行われました。

 河北新報(1月21日付)は「教職員への聴取開始」との見出しで、教職員からのヒアリングを「教職員と委員が1対1で面談し、再発防止に向けた考えなどを尋ねた。現時点で12人が応じ、今後さらに5、6人に行う」と報じています。
 昨年末12月27日開催の前回会議のときは「調査方法 また決まらず」との厳しい見出しでした。あれからすぐ正月休みになり、年が明けて本格的に学校が動き出すのは7日からの週・・・、学校側の受け入れ条件、聴取をする委員の条件を調整し20日の会議までに12人のヒアリングを行う。これは、なかなかの強行日程だったのでは? 前回会議ではヒアリングを行うことに及び腰だった委員たちの様子を思うと、年明け早々から奮起して取り組んだことを感じました。以下、傍聴して思ったこと考えたことの幾つかを述べたいと思います。

 まずは、新聞も伝えているところの発達障害をめぐるやり取りです。教職員の聞き取りを行った委員からは「男子生徒の特徴を全て『発達障害だから』と解釈しているような印象を受けた」と報告がされ、また他の委員からも「いじめの原因を発達障害に求めるような学校の認識は改めるべきだ」「答申書も発達障害という言葉に引っ張られている」など意見が交わされました。
 自死生徒を発達障害とみてよいかどうかについては、《そうは思わない》という意見や、《それは本人に会わないとわからない》と前置きしたうえで、《発達障害という診断と認定は、認定することがその子にとってよいかどうかという恣意的なところがある。必ずしも客観的線引きではない。》との発言などがありました。
 また自死生徒を発達障害と解釈している教師に、そのような生徒への具体的な手立てや対応を聞くと口ごもってしまい、発達障害という理解・解釈が生かされていないと感じたなど、教育行政をはじめ学校現場の教師たちの発達障害をめぐる認識のあり方やその対応の問題性が語られていたように思います。また、そもそも発言していた委員の中には、発達障害という概念そのものに対する強い懐疑があるとも感じました。

 次に、スクール・カウンセラーについてです。私たちは不登校やいじめの対応というと、すぐにスクール・カウンセラーの導入や強化を考えます。しかし、ここでは《スクール・カウンセラーの導入で何がよくなったのか。よかったとは言うが、何がどんなふうによくなったのかは出てこない。そういう報告や成果を聞いたことがない》、《医療の中でも多職種連携が言われるが、どう連携するか踏み込んだ議論がないと一緒にいてもダメ》、《教師は授業、スクール・カウンセラーは心という役割分担によって、教師は子どもの心が見えなくなる》など、スクール・カウンセラーの導入や拡充・強化に対して本当にそれでいいのかと「待った!」をかける発言がありました。

 また、ヒアリングを行った委員からの報告では、部活動における教職員の職務やその位置づけ、あるいは1学級40人というクラスサイズについて他県の実態はどうなのか?など、ヒアリングを行うなかで見えてきた疑問が出されました。委員自らが教職員に直接ヒアリングを行うことの意味(効用)が、こういうところに出ているのではないかと感じました。

 ところで、これらのやり取りを聞きながら、こういう議論こそ、本来はもう一つの第三者機関「仙台市いじめ対策等検証専門家会議」でなされてよいのでは? されるべきではという思いがしてくるのでした。名称に「検証」「専門家」などという言葉が並んでいるにもかかわらず、その名称にふさわしい議論がなぜなされないのか? そのことをまずは検証する必要があるのかもしれません・・・。

 これら前半の報告と話し合いが様々に考えるべき視点を傍聴者の私たちにも提供してくれていただけに、会議後半に行われた市教委に対する「いじめ問題専門委員会」の調査結果へのヒアリングは、残念だなあという印象を感じました。
 ヒアリングの目的は、市教委設置の「いじめ問題専門委員会」の調査内容とその経過について聞き取りを行うことで、どのような再調査が必要か、そのことを明らかにするためのものでした。ところが、何度出席を要請しても応じてこなかった市教委と「いじめ問題専門委員会」に対する不信や不満が最初から爆発したのか、ヒアリングは半ば市教委に対する批判と中傷になってしまい、目的が果たされたようには傍聴していて思えませんでした。
 市教委のこの間の対応やヒアリングの回答に不満などが鬱積していたのかもしれませんが、もっと冷静な話し合いが必要だったのではないでしょうか。教育長が「これがヒアリングですか?」と、声を荒げたくなる気持ちも理解できます。せっかくの意味ある場が、後味悪いものになっては元も子もないと感じました。
                               ( キヨ )

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ブラタモリ、有馬温泉で思い出す 一夜の出来事・・・

 3日の夜のテレビ「ブラタモリ」は有馬温泉だった。「有馬温泉」は、私に亡くなったHさんをすぐ思い出させた。

  昼の豊中市の用事を終えた足でHさんと2人で、Sさんとの約束場所の有馬温泉に行ったのだ。数教協の全国大会が有馬温泉でもたれており、Sさんはそこに参加していた。9時終了予定の夜の部後にSさんと会うことにしてあった。
 ロビーではまだ元気だった森毅さんの独演会が大勢の人に囲まれておこなわれ、何度も笑い声が上がっていた。
 Sさんは玄関を入ってすぐのところで待っていた。
 なぜSさんと会うことにしていたか。

 Sさんは、当時、関西の10か所近くで母親たちの教育を語る会に関わっていた。その語る会から数教協大会に参加する母親たちが、Hさんたちと作った生活科教科書「どうして そうなの」「ほんとうは どうなの」の話をぜひ聴きたいと言っているが、という連絡をもらったのである。教科書の話は、語る会ですでにSさんがしており、そのことで母親たちは興味をもっていてくれたのだ。

 9時過ぎると、Sさんと一緒の私たちの部屋に、母親たちはぞくぞくと集まってきた。記憶は定かでないが、30人前後ではなかったか。神戸をふくめて兵庫の方が多かったが、京都・大坂・和歌山からという人たちもいて内心驚かされた。
 教科書の趣旨と内容を話した後は、母親たちからの話がつづき、解散した時、時計は夜中の1時を回っていた。その母親たちのまっすぐな話に、Hさんも私もこれまでになく励まされた感じになることができた。

 その後、3人で風呂に入ったのだが、なんとSさんが部屋の鍵を持たずに出てしまい、部屋に入れない。ホテル関係者を探しまくってもだれ一人つかめない。何しろ2時なのだから。仕方なしに、大広間に行き、そこに並んでいる座布団を布団がわりに敷いて掛けて、一時の眠りをとった。
 余計なことだが、あの時の有馬温泉は、「1泊した」と言えるのかどうか・・・。

 後日、教科書展示会に行き、あの教科書は、どう見られるのかが気になり、近くに腰かけていた。あるグループが、2年用のケヤキの写真を見て、「うちの学校にはケヤキがないものねえ」と言っていた。その時、有馬でのある母親の言葉を思い出した。「うちの近くにイチョウの大きい木があるから、子どもと一緒に見つづけてみよう」と言ったのを。
 私には、(とっても大きな違いだ! この違いはどこからくるのだ!)と思ったのだった。( 春 )

今、教育にも求められること 中村桂子さんの挨拶から考える

 昨年末、高校生公開授業でお世話になった中村桂子さんが、2月1日付の生命誌館のホームページで新年の挨拶を掲載されました。一部を抜粋して紹介します。 

「人間は生きものであり、自然の一部である」。とてもあたりまえのことですが、これをよく考えることがこれまで以上に大切になっていると思うのです。
 これからはAI(人工知能)の時代だと言われます。時にはAIが人間を超えるという人さえいます。でも生きもの研究の立場からすると、「人間とはなにか」というのはとても大きなテーマでわからないことだらけです。どうしたらこのわからないものを超えたことになるのだろうと考え込みます。
 たとえば戦争です。戦争をするのがあたりまえであり、日本もあたりまえの国になろうと言われます。人間という生きものは戦争をするのがあたりまえにできているのかどうか。よく考えてみなければなりません。最近、類人猿や絶滅した人類との比較から、私たちの祖先はとても穏かな存在だったとも言われ始めています。
 とにかく、「人間」をもっとよく知らなければなりません。技術も政治も急がずに、慎重に考えるところから始めて欲しいと思います。

  新しい学習指導要領の発表の折にも、先行き不透明な時代とかいいながら、その一方で、AI時代を想定したり、IT技術への対応と称して小学生からプログラミングの学習が大切などとさかんにアピールしています。

 中村先生の技術と政治にプラスして、「教育」も急がずに慎重に考えるところからはじめることが求められていると思います。<仁>

60代の若者たちへ  誕生日に念う

 まったくの私事ですが、先日、60代最後となる誕生日を迎えた。その誕生日の翌日、新聞をめくっていると、中程に1頁全面を使って、脚本家・演出家である倉本聰さんの広告(記事)が掲載された。

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 目に飛び込んできた大見出しが、「60代の若者たちへ。」 その後のサブタイトルは「この先をどう生きるか。しまっておいた夢を取り出してみないか。」と大文字で書かれている。
 そうか、あと一年、自分にも60代が残っているなぁと思うと同時に、「しまっておいた夢」はなんだろう?、そんなものがあるかなぁ?などと、立ち止まって考えたのであった。そして昨年読んだ本の中から、白川静さんの「回想90年」(2011年初版・平凡社ライブラリー)を思い出した。13名の著名人とのインタビュー・対談を柱に編んでいるのだが、その中に、石牟礼道子さんとの対談が書かれていた。その冒頭部分では次のように語り合っている。

石牟礼 私も気がついたら70をすぎました。先生はやがて90になられるの に元気に仕事をされているので、私もこれから予定の仕事をしたいと思っております。
白川 私が辞書を書き出したのは73のときです。最後のまとめと思って、2年・2年・6年の10年計画でやりはじめた。「字統」と「字訓」は2年・2年でいけたんですが、最後の「字通」は7年半ほどかかりましたね。  
       ※白川さんは2006年に96歳で他界されています。

 まさにお二人とも、倉本さんのいう「しまっておいた夢」を追い続けていた70代の若者なのだなあと感服するだけの自分でした。

前述の対談の中の次の部分も興味をひくものがあった。

白川;辞書については新村出先生にこう言われたことがあるんです。辞書というものは、言葉の起源を明らかにしなければならん。言葉の歴史を明らかにしなければならん。言葉といろんなものとの関係を圧縮して、そこから広がってゆくようなものでなければならん、とね。そして先生ご自身は『広辞苑』の元の版をおつくりになった。ところが今の『広辞苑』は先生の趣旨からだいぶ外れて、百科辞書のようになってしまってね。先生は、間口は狭くて奥が深いほうがよいと言うておられたんですが、ちょうど逆になりましたな。
    私はそういうお話しを聞いておったものだから、徹底的に字の素性を洗って、文字は孤立しておるのでなしに、縦の系統とか横のつながりとか、いろんな広がりをもっていると考えて、そういう流儀で『字通』を書いた。だから、あれは必要なときに必要なとこだけ見て、パタンと閉じてしまうんでなしに、遊んでほしいと思ったのです。

 白川先生の願いに応え、辞書を遊ぶように使う。これならボクにもできるかな。そして「しまっておいた夢」を残り1年で見つけ出し、70歳をむかえられればいいなあと考えたのでしたが・・・。<仁>

第4回 仙台市いじめ対策等検証専門家会議を傍聴して

 第4回仙台市いじめ対策等検証専門家会議(以下、専門家会議)が、年明けすぐの1月12日(金)に行われ、第1次提言・案についての話し合いを持ち、週明け15日(月)には、早々と郡仙台市長へ第1次提言を提出。さらに1日おいた17日(水)には、総合教育会議の場で、この第1次提言が議論されました。いじめに関する取り組みが遅々として進まないと新聞各紙で報じられていただけに、ここにきてとてもスピーディーで手早い対応だと感じました。ただ、この素早い対応はいじめという重い課題にふさわしく真剣に受け止めてのものと考えてよいかは、簡単に言えないなあとも思いました。以下、雑感を述べます。

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 第3回いじめ対策等検証専門家会議については、すでにdiaryで感想を述べましたが、そこでの議論の低調さ、検証とは名ばかりの実態を考えると、この段階で第1次提言を出すというのは、あまりに性急だと感じました。会議の進行を務める石巻専修大学教授の木村民男会長は「予算編成が佳境に入っている。そう急な着手が望ましい項目を中心に委員の意見を集約した」(河北新報)と言うように、この第1次提言が検証を踏まえてのものというよりも予算編成という時期を優先させてのものだということを率直に語っています。
 そのため出席した複数の委員からは、この段階での提言をどう考えたらいいのか戸惑いや異論が、会議冒頭でずいぶんなされました。朝日新聞は「提言素案『抽象的』委員から異論相次ぐ」との見出しで、そのあたりのやり取りを「予算に盛り込むことに配慮するなら、提言は具体的である必要がある」、「事務局は『いずれも重要施策』と言っている。穴があるところを早急に埋めるべきで、抽象論でいいのか」と伝えています。また専門家会議の第1回議事録には、事務局と庄司委員との間での次のようなやり取りも記録されています。

●庄司委員
確認ですが、第1次まとめというのがありますが、これは具体的に何かまとめた書類、提言みたいなものを提出するということが予定されているものですか。

●事務局(コンプライアンス推進担当課長)
この会議におきましては、例えば、答申や報告書のような形で会議の総意としてのものを作っていただくことは予定しておらず、随時皆様からご意見、ご議論を頂戴するということになっております。「第1次まとめ」と記載していますのは、そこまでの主だった意見をまとめて一度振り返る機会を設けたいと、そのような趣旨でございます。

 ですから委員のみなさんも、今回の第1次提言と言っても「第1次まとめ」として、これまでの主な意見を振り返るものという程度の認識だったのではないでしょうか。よもや予算に反映されることを前提にしたような提言がまとめられるとは予期していなかったのではないかと推測します。各委員からの会議での発言は、この会議の性格や意味づけを改めて確認し疑問を呈したものとして委員たちの良識を感じますが、残念ながら会議は予算編成ありきの事務局と木村会長の運営で進められる形となりました。いじめ問題は早急に取り組む必要があるからやむを得ないのだと言うことなのでしょうが、やはり検討もないままの予算措置で大丈夫なのでしょうか。転倒した会議運営のあり方が、今後の具体の検証にも影響しそうで心配です。
 次に提言の中身についてですが、いくつか新たな手立てや取り組みが述べられてはいますが、特に目新しい施策はないように思いました。予算編成を睨んで、これまで行ってきた施策の拡充・強化という観点での提言がほとんどでした。
 しいて目新しい施策と言えば、前回3回の感想でも述べたコミュニティ・スクールの導入ですが、いじめ問題に便乗して導入しようという感じを受けました。地域と学校が連携することの重要性はわかりますが、きちんとした議論と検討が必要だと思いました。

 ※ ちなみに17日に行われた総合教育会議は、第1次提言を各教育委員が追認す
  る形で意見を述べるにとどまる内容でした。そういう性格の会議なんでしょう
  か?( キヨ )

すてきな伊豆沼の野鳥たち、ご覧下さい!

 研究センターのホームページを開くと、まずみなさんに見ていただけるのがスライド写真です。私たちが催した講演会のときの様子や、四季折々の草花などです。
 これらの写真を毎回撮って提供してくださっているのが、研究センターの活動をずっと支えてくれている千葉さんです。ついこの間までは、昨年末に行われた中村桂子さんの高校生公開授業のときのものを載せていました。今は、伊豆沼の白鳥をはじめ飛来する野鳥の写真を載せています。どのようにしたら動く被写体のあんな素敵な一瞬を、あのように写真に捉えることができるのだろうか?、と不思議でなりません。私なども千葉さんをまねて、今がシャッターチャンス!、とシャッターを切るのですが、毎度うまくいきません。

 今回の野鳥もそうですが、先ほどふれた高校生公開授業の写真も、参加してくれた高校生たちの真剣な表情は、男女にかかわらずどの子も本当にすてきで惚れ惚れします。そもそも授業中の子どもたちの表情を撮った写真って、あるようでないんじゃないかな? 家族でどこか旅行に行ったとか、友だちと遊びに行ったとか修学旅行のときのものとか、そういう思い出の写真はあるけど、授業中の写真ってあるようでないですよね。子どもたちが何かに夢中になっているときの真剣な表情って美しいなあと思います。どこの学校の教室でも、こういう子どもたちの表情が見られるといいですね。( キヨ )

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「冬の学習会」を振り返る ~ 多くの仲間と子どもに支えられて ~

 今年は宮城民教連「冬の学習会」に参加した。学校現場の現状を知らずにものをしゃべったり、批判的に聞いたりする自分を、そのような場に置くことをしぜん避けるようになっている。(どんな時代であろうと、大事なものは大事だ)という思いをもつものゆえ、しぜん足が重くなってきている。

 宮城の「冬の学習会」は、今年が63回だという。よくぞつづいているものと思う。つづけている人たちに感謝だ。
 「冬の学習会」の歩みについてのきちんとした記録は残っていないが、1952年を第1回とする夏の東北民教研集会後に冬は各県でもつようになったものであり、1955年が宮城の第1回「冬の学習会」ということになるのかもしれない。

 話は夏の東北民教研にとぶが、第1回会場は宮城で、連坊小路小学校でもたれた。鈴木道太・佐々木正・大村榮・佐藤九二一・宮崎典男・小泉定光らが呼びかけ人になり新潟を含む東北各県に働きかけ、準備会をもって本集会をもっている。

 宮崎典男の記録によるとその時の集会予算は次のようだった。
 ・収入―5万円(・宮教組からの後援費1万円、・東北5県教組2万円、・会費
         2万円「宮城参加者のみ、1人200円」)
 ・支出―5万円(・講師関係2万5千円、・会場費5千円、・プリント2千円、
         ・接待3千円、・通信宣伝1万円、・準備5千円)
 ・参加者についていうと、「岩手宿泊班は本部のご案内の好意で教養学部(尚心
  寮)へ。1泊50円、食事は米2合持参で1食60円(米なきときは80円)。毛布
  持参。」 と大会ニュースにみられる。

 このこと1つ見ただけでも、参加する方も準備する方もたいへんだったことがわかる。参加者は180人だったそうだ。会場校校長が左遷されたという話まで残るようだ。このような出発をした「東北民教研」であり「冬の学習会」であった。

 この第一回東北集会を書きつづけたら尽きないので、今年の冬の学習会にまたもどる。
 今年私が参加した理由は2つ。1つは、「センターの部屋」の椅子を一つでも埋めること。もう1つは、国語分科会での仕事を言いつかったことだった。
 「センターの部屋」は、3人の報告者の話がよくて、気持ちよい時間を過ごすことができた。

 問題は国語の方。これまで私は人前で話をして1度もうまくいったためしがない。今回受けた時も、そうなることは覚悟の上だったのだが、そのとおりになってしまい、翌日は疲れがドッと出て、1日中、ゴロゴロして過ごすことになってしまった。なぜか。
 力のなさの一言に尽きるが、用意した内容が完全に場にふさわしくないものであったことも大きい。なんと、前に座る人たちにはほとんど不要かもしれない内容を用意したことになってしまったのだ。その心配がなかったわけではなかったが、与えられた任務をまともに考え、柔軟でなかった。考えるために取り上げた素材を、その場で変える勇気も力もなかったと言える。あまりに情けない。

 それでも、こんな時いつも助けてもらうのは、かつての子どもたちが書き残してくれたものだ。かれらの書いたものは私の中ではいつまでも古びない。いつでも使えて考える教師の仕事を考え合うための材料になってくれる。そのたびに、(子どもってすごいなあ)と思いつつ、教員であったことを幸せに思う。

 今年も彼らに感謝しつつ、私の「第63回冬の学習会」は終わった。( 春 )