mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

三島孚滋雄を知ってますか ~ 教師として生きるとは ~

 5年がかりで、田中武雄さんと2人で、『教育の良心を生きた教師―三島孚滋雄の軌跡』という書名のものをまとめた。三島の書き残したものを集め、少数であったが三島を知る方の話を聞いて、できるだけそれらをそのまま生かす形で三島という教師の生き方を知ってもらおうとした。もっと早く取り組めば、もっと多くの方の話をきくことができ、全体を膨らませることができたであろうと思うと、たいへん残念である。

 その三島は、白石中学校長5年目に、職員向けに「河童通信」という名の通信を発行した。校長が職員向けの通信を発行したということに私は驚きながら、そんなことを教員時代、校長に期待することなど寸毫も私はもたなかったし出会いもなかった。
 しかも、「河童通信」は、1号たりともいいかげんなつくりではないのだ。さりげない叙述の体をとりながら、教師として何を大事にすべきかを全エネルギーをぶつけるように職員へ語りかけている。

 全体を通して驚くことのひとつは、そのための読書量だ。「そのための」という言い方はまちがっていて、常日頃の読書量が通信の内容を支えていると言えるだろう。
 たとえば、「河童通信」3号は1957年5月23日発行だが、この号では、岩波新書「一日一言」(桑原武夫編)をとりあげてつくっている。ちなみに、この「一日一言」の初版発行は1956年12月10日である。編者の桑原は「はしがき」の中で次のようなことを書いている。

・・・本書において私たちは、ただ、すぐれた言葉を思いつくままに無秩序に集めるのではなく、一年、365日の日々に、それぞれその日にゆかりのある人物の言葉を収録し、略伝と肖像とをそえ、読者諸君が、毎日ひとつずつの言葉を味わいうるようにしたいと思った。・・・

  私は今になるも「一日一言」を読んでいなかったので、あわてて古本屋に走った。それは新書でありながら小さい字の2段組みでびっしりとつまっており、桑原のなみなみならぬ力の入れようが伝わってくる。三島はそれを、発行後半年も経っていない時に、職員に紹介しているのだ。

 世界の有名人の言葉が毎日並ぶ中、「一日一言」の8月15日は、「太平洋戦争敗戦」の小見出しで、一未亡人の手記。間もなく、またその日がやってくる。全文を以下に紹介する。 

 八月の十五日、とうとう神風は起こらなかった。前線の兵隊さんはどうしていることだろう。痛歎の余り自決! ああそんなことはない、私達を、可愛い子供を残して死ぬものか、きっと帰ってくる、私もとうとう子供を守り通した。もう爆弾で殺されることはない。終戦―何と空々しい静けさであろう。ただ呆然として、夫が帰って来たら・・とそればかり思う。しかし夫は私達に前以上の試練を下されたのでした。
 終戦と同時に軍隊の消滅、物価の暴騰、僅かばかりの貯金の封鎖に、帰還の日の一日も早からんことを祈りつつ、夜ふけてコツコツと聞こえて来る靴の音に今度はと何度胸をおどらせたことでしょう。(いとし子と耐えてゆかん)

                                                                                                                  ( 春 )              

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人とつながり希望を紡ぐ② ~学びでつながり希望を紡ぐ~

 夏休みは、先生たちにとって日頃できないことを始めたり、自分の興味・関心を広げたりするよいチャンスです。研究センターはその一つとして、8月6日(日)に『夏休みこくご講座』を開きますが、先日の被災地支援ツアーでお世話になった宮城県職員組合も、『明日の授業のための教育講座』を開催するとのこと。さまざまな学びの内容が用意されています。早速、雄勝の徳水さんの合い言葉「人とつながり希望を紡ぐ」にあやかり、diaryで紹介します。

 ちなみに『明日の授業のための教育講座』は、この週末1泊2日、29日(土)・30日(日)の開催です。まだまだ今からでも参加申し込みは大丈夫だそうです(宿泊する場合は、日にちが迫っているので組合に連絡がほしいそうです)。

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人とつながり希望を紡ぐ

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 23日(日)は、仙台市長選投票日。市長選は自民、公明などが支持する菅原裕典さんと、民進、社民、共産などが支持・支援する郡和子さんの事実上の一騎打ち。国会の与野党対決の構図と同じ状況の中での仙台市長選、今後の国政にも影響する大事な選挙でした。

 その同じ日に、被災地支援ツアーで石巻雄勝ローズファクトリーガーデンへ。ガーデンづくりのお手伝いに行ってきました。

 ガーデンを運営するのは、德水利枝さんと夫の博志さん。博志さんは、元雄勝小学校の先生で、研究センターのさまざまな取り組みや震災後の聞き取り調査などで大変お世話になっています。また退職するまでの数年間を、学校と地域の再生と復興のために、まさに身を粉にして尽力されてもきました。
 今は、妻の利枝さんと一緒にガーデンづくりをしながら、震災を通じて得た「人とつながり希望を紡ぐ」を合い言葉に、雄勝の森・川・海の生態系と雄勝石やホタテ・ホヤなどの地域資源を生かした「地域内経済循環」の構築と、持続可能な新しい町づくりに取り組んでいます。

 これまで様々な形で支えてくださっている徳水さんに少しでも報いることができればと、今回、宮城県職員組合が企画した被災地支援ツアーに参加させていただきました。
 午前中は、徳水さんが取り組んでいる震災教育プログラムの話をききました。午後はガーデンづくり作業と、震災時の雄勝小、大川小の話を現地に行って聞きました。( キヨ )

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   徳水さんから震災教育プログラムの話を聞く             日本最北限のオリーブの苗木の移植作業

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          女性陣はラベンダーの苗植え作業         みんな、気持ちのいい汗をかきました

あなたは誰? 名前を見てちょうだい!

 今度の『夏休みこくご講座』は「スイミー」と、もう一つ、あまんきみこさんの「名前を見てちょうだい」を扱う。授業づくりの話は当日の「こくご講座」にお任せするとして、「名前」と聞いて思い出したことがある。 

 『小森陽一、ニホン語に出会う』の中に、名前をめぐる授業のやり取りが出てくる。授業は1990年に、小森さんが小学4年生の子たちに向けて行ったもの。すでに四半世紀も前のことになるが、今読んでも刺激的だ。
 授業の導入で、子どもたち一人ひとりが、小森さんに自己紹介をする。

「僕の名前はウダガワユウジですマル。」
「私の名前はイシヅカユキですマル。」
「僕はシバタトモクニという名前ですオシマイ。」
「私はカキヌママユです、サッカーやドッジ・ボールが大好きで、
 すごいおてんばです・・・・」

というような具合に。ところが突然、小森さんは子どもたちにむかって「僕がはじめて来たと思ってみんな嘘ついてるでしょう」と切り出す。さらに怪訝そうにキョトンとする子どもたちにむかって、今度は「本当に君はウダガワくん?」と言い出す始末。だけど、この年齢の子たちは、まだまだ気持ちがまっすぐ。本当にウダガワ君?と問われた子は、「そうですよ。」「ウソー!」「そうだもん!」「どうして君、ウダガワ君なの?」と小森さんと正面からの押し問答。このあたり実際の教室の様子は、相当緊迫したやばい感じになったようだ。小森さんは、その時の様子について

 なおも執念深く当のU君に、彼が書きつけた自分の姓名が「ウソ」ではないことを証明せよ、とせまると、彼の顔は次第にこわばっていった。とてもたくましそうな男の子だという印象があったものだから、私の方も腕組をしたまま反応を待った。緊張した空気が教室にはりつめた。咄嗟に2、3人の生徒が「身分証明書見せてやれよ!」と叫んだ。U君は机をけとばすように立ちあがり、教室の後の方に、文字どおり脱兎のごとく、ものすごい勢いで飛んでいこうとした。この反応に、私自身驚いてしまった。授業の導入部として予定していた、固有名詞について考えるこの操作が、これほどまでに小学4年生を追いつめてしまうものだということは予想していなかった。 

と記している。U君ことウダガワ君に限らず、子どもたちは思いもしていなかった状況に立たされ大変だったろう。しかし授業のやり取りが示すように、実は「私は〇〇です。」と名前とその人が一致していることを証明するのはそう簡単ではないのだ。 

 あまんきみこさんの「名前を見てちょうだい」は、お母さんに名前を刺繍してもらった帽子を、主人公の女の子が風で飛ばされてしまうことから展開していく。落とし物や忘れ物があった時、まずは名前が書いてあるかどうか調べ、名前が書かれていれば、その名前を手がかりに落とし主を探して返すわけだけど・・・。生まれてこの方ウン十年と私に張り付いて、落としたことが決してない名前という所持品は、そうであるにもかかわらず、その名前はあんたのものか?と面と向かって聞かれると証明するのが難しい。

 あまんきみこさんの「名前を見てちょうだい」は、こういう展開にはならないけれど、名前というのは考え始めると相当奥深いもののようだ。 

 ところで、小森さんの授業がこの後どう展開したかは、ぜひぜひ『小森陽一、ニホン語に出会う』をお読みください。名前という固有名詞の奥深さについて授業記録とは別に詳しく話もされています。また小森陽一という日本を代表する夏目漱石研究者が、どのような数奇な人生遍歴を経て今に至ったのか。たいへんおもしろく、ニホン語に関して考えさせられる内容満載です。ここまでお読みいただき、本を買おうかなと思われた方には吉報です。この7月に文庫化され、タイトルも『コモリくん、ニホン語に出会う』と若干リニューアルして、お安くお買い求めいただけるようにもなりました。今がお買い得ですよ。(キヨ)

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中学生いじめ自死、それぞれの思いや声挙げるとき

 仙台市の中学生いじめ自死にかかわって、元教師の高橋幸子さんの投稿が河北新報『持論時論』に掲載され、diaryでも紹介しました。

 その後も7月3日(月)には、中学校の現職教師である遠藤利美さんの投稿が『持論時論』に掲載されましたし、NHK仙台仙台放送などでは特集番組も組まれました。教育や子育てにかかわる多くの人が、それぞれの思いや声を挙げるときなのかもしれません。以下、遠藤さんの『持論時論』を掲載します。

    いじめ自殺対策 目行き届く体制整備を

 仙台市で、この3年間に中学生3人の尊い命が、自死で失われました。いじめが原因とみられ、市教委と学校現場は、マスコミや市民からの批判の渦中にあります。直ちに何かしらの「対策」を行う必要に迫られてのことなのでしょうが、市教委の対応は対症療法的なものにとどまっているとの印象を免れません。
 「アンケートによるいじめの早期発見、早期対応」「夏休み前半までに全ての生徒との面談」などを学校に求めています。これは短期的・限定的には効果もあるでしょう。しかし、長期的で持続可能な方針がないまま対応の強化を求め続けることは、現場をさらに疲弊させ、逆効果になりかねません。
     ◆    ◇    ◆    ◇

 子どもたちは自分を取り巻く環境の中で、多かれ少なかれストレスを抱えています。こどもたちがさまざまな活動を集団で行う学校では、人間関係のトラブルは日常茶飯事です。学校ではそうしたトラブルや悩みに対し、教職員が臨機応変に対応しています。多くの学校では休み時間にも教職員が廊下で過ごすなどの活動も日常的に行われています。誠心誠意、子どもたちに向き合っています。
 アンケートや面談を強化すれば、早期発見は期待できるでしょう。しかし、生徒が不登校や別室登校になった場合でも、教職員の数が少ないため、長期的に丁寧な対応をし続けることは難しいのが実情です。保護者が教員の忙しさをみて、相談したいのにためらうこともあるほどです。
 保護者や生徒からの相談希望が急増しているスクールカウンセラー(SC)が週1日しか学校にいない状況も問題です。SCが常駐するようになれば、子どもたちの心のケアも早い段階から可能になることは間違いありません。
 また、親子間のトラブルなどに対応するためのスクールソーシャルワーカー(SSW)の増員も喫緊の課題です。現在、仙台市に5人しか配置されていないため、各学校は相談したい事案をたくさん抱えながらも遠慮している実態があります。子どもたちへの支援体制は明らかに不十分です。
 マスコミも学校現場の異常な労働実態を取り上げています。仙台市の学校でもいつ教職員が倒れてもおかしくない状況です。条件整備抜きの取り組み強化は限界に近づきつつあります。学校に求められているのは、ゆとりとアットホームな雰囲気です。子どもたちが楽しく過ごせる学校が理想です。私たち教職員自身が人権感覚をさらに磨く努力も大事でしょう。
     ◆    ◇    ◆    ◇
 教職員が時間的にも精神的にもゆとりを持つことで、生徒と気軽に声を掛け合えるような温かい人間関係づくりを進めることが大切です。そのためにも一人一人に目が行き届く少人数学級の実現やSC、SSW増員、フリーの教職員の加配など、長期的視野に立った条件整備が早急に求められます。
 マスコミには、学校での取り組みや課題をリアルにつかみ、学校が良くなる方向で市民と教職員が協働できるように、力を貸してほしいと思います。

  いのちを守り、はぐくむ教育の場が、いのちをすり減らし奪う場になってはいけません。しかし残念ながら、今の学校は、子どもたちのみならず教職員も命をすり減らす場になっているようです。1990年前半は1,000人前後で推移していた教職員の精神疾患による休職者は、その後年々急増して今や5倍の5,000人を超えています。

 この7月発行の『センターつうしん』87号の中には、日々の授業準備もままならない学校現場の現状と厳しさが、次のように綴られています。

 授業の質は教師がその教材をどれだけわかっているかに規定されるので、ー(中略)ー 教師自身の深い学び(教材研究と実践検討)が必要となる。しかし、校内諸会議・提出文書作成、アンケート集計、学力検査分析・集金業務・生徒指導・保護者対応・研修・〇〇教育の追加(例えば環境、食育、防災、いのち、自分づくり、エネルギー等)などが、教科教育にかける時間を奪い、長時間過密労働が常態化している学校現場でそのような教師の学びを期待することは極めて難しい。

 子どもたちが朝登校し下校するまで、教師はほとんどの時間を子どもたちと過ごしています。ですから、上記のさまざまな仕事のほとんどが、子どもたちが帰った放課後にならざるを得ません。一番時間をかけたい授業準備や子どもへの対応・支援が二の次、三の次にされてしまっているのが現状です。

 新聞やテレビなどでも、様々なかたちで教師の仕事のあり様が問題になり始めています。学校は、子どもたちが学びを通じてヒトから人へと成長する場です。同様に、教員も日々子どもと向き合う中で教師へと成長していきます。

 教師や学校のおかれている現状、その中で今何が課題となっているのか。そして、どう子どもたちと向き合うことが求められているのか。そのために何ができるのか。私たち一人ひとりに問われているように思います。( キヨ )

『夏休みこくご講座』に向けて

 今週はじめ、8月6日(日)に行う『夏休みこくご講座』の打ち合わせをしました。主には当日の役割分担を含め、夏休みの講座をどんな講座にしたらよいかの話し合いです。
 毎回、打ち合わせの中心を担ってくれている千葉建夫さんが、夏の講座で扱う1年生の『スイミー』について、教科書と実際の絵本では、どこがどう異なっているかを比較した資料(一覧)を作成してきてくれました。教科書の『スイミー』は、教科書という制約がいろいろあるから仕方ないのかもしれませんが、ずいぶん絵がカットされています。その一方で、文章の方は、絵本の『スイミー』とは異なる語句が使われていたり、新に加えられていたりしていました。分量としてはわずかですが、語句が補足的に変わったり、付け加えられていることにはびっくりです。こういうことって、著者の許可とかそこら辺はどうなっているんですかね。教科書ではOKなんでしょうか。
 そんな資料を見ながら、しばしみんなで意見交換を行いました。単なる教材解釈に終わらず、比較することでみえてくる絵本の魅力や工夫、子どもたちにとっての「スイミー」のおもしろさなどの話にもなりました。もちろん、この資料も、夏休みのこくご講座では、参加者のみんなにも配布する予定です。ぜひ楽しみにしていてください。

 ちなみに、午後の下学年グループでは『スイミー』の他に、あまんきみこさんの『名前を見てちょうだい』(小学2年)も扱います。

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自然の猛威を前に ~九州の豪雨被害から~

 ここ毎日、福岡・大分を中心にした九州の広域で、その地の人たちが「過去に例がない」と口をそろえていう豪雨とそれがもたらす川の氾濫・土砂崩れについてのニュースが報じられている。現地の様子は本当にすさまじいものだ。

 このようなニュースは、岩手県境の北上川沿いに育った私に、戦後毎年のようにつづいた、小・中学生時代の川の氾濫を昨日のことのように思い出させる。
 当時の台風には、台風まで占領下にあったということか、カスリーンとかキテイとかと外国女性の名がつけられていた。
 名だけが優しさを装っていても、台風はそのたびに子どものわれわれを震え上がらせた。いつもはきれいに澄んでいて、メダカと一緒になって泳いでいる水の楽園が一夜にして逆巻く濁流に変身するのだ。
 なぜ戦後すぐに、北上が荒れたか、大人たちはそろえて「山の木を伐りすぎたからなあ」とか「人手がなくて山の手入れをしなかったからなあ」と言っていた。戦地から帰ってくる若い人たちの遺骨が増えるごとに、山は荒れ放題になり、小学生の私たちまで農家の畑の草取りがつづいた。毎日の学校帰りにちょっと山に入るだけで竹串いっぱいに採れていたキノコもしだいに採れなくなってきた。 

 そんな子ども体験が体にはりついているので、簡単に山を崩してしまうブルドーザーやダンプカーは快く見ることができない。今も3・11被災地に行って防潮堤用の土を運ぶ列をなして走るダンプを見ると、口には出すことはしないが、自然のバランスの崩れが心配になり、その後の山の手入れを考えているのだろうかと心配が増す。 

 話をもどす。私たちは、川が増水してくると、大事な荷物を2階に上げて、すぐ傍の堤防の上に避難するのだった。この堤防への避難については、なぜ川にもっとも近い堤防だったのかは、その時も今もわからない。「子どもは寝ろ!」と言われても、濁流が時々白い牙を見せたりうなりをあげたりするので、とても眠れたものではない。一時は、水が、堤防の低い箇所から内側に入り始めて大騒ぎしたこともあったが、奇跡的?に難を逃れることができたのだった。

 上流からさまざまなものが流れてくることも毎度で、家がまるごとということも何度もあった。それらのほとんどは、私たちのいる対岸の流れがつくっている渦に巻き込まれ、少しの間をおいてバラバラにされ、粉々にされた破片が水中から飛び上がってくる。ある時、子どもまでが水中から吹き上げられ、切り立つ崖の上に投げ上げられ、奇跡的に助かったということがあった。後でわかったことだが、3年生ぐらいで、岩手の一関市から流されてきたのだった。

 その子を見つけたのは、その崖まで広がる果樹園をもっている私の叔父だった。その後、その子(と言っても今は80歳近いと思うが)は、叔父の生前は欠かすことなく年に一度は挨拶に来つづけ、叔父が他界した後の今も顔を出すという。その話を聞くたびに、自分が奇跡的に助かった(助けてもらった)ということの礼ではあろうが、その人自身のもついのちに対する尊厳を忘れることがない行為を感じいい話だといつも聞いていた。 

 「自然」はいろんな暴れ方をする。私は、そのたびに呆然と立ち尽くすだけだった。今でもどうにもならないと思っている。だから、原発について「ここは安全だ」などという言葉は全く信じないし、いかに科学者といえども横着すぎると思う。
 自然を循環という視点で考えれば、「自然」にたたかれても仕方のないことを人間は平気でやりつづけている。あまりにも愚かだ。
 つねに私たちは「自然」の中の一員であり、「自然」に生かされているという謙虚な態度をもちつづけていきたいものと思う。( 春 )