mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

中学生いじめ自死、それぞれの思いや声挙げるとき

 仙台市の中学生いじめ自死にかかわって、元教師の高橋幸子さんの投稿が河北新報『持論時論』に掲載され、diaryでも紹介しました。

 その後も7月3日(月)には、中学校の現職教師である遠藤利美さんの投稿が『持論時論』に掲載されましたし、NHK仙台仙台放送などでは特集番組も組まれました。教育や子育てにかかわる多くの人が、それぞれの思いや声を挙げるときなのかもしれません。以下、遠藤さんの『持論時論』を掲載します。

    いじめ自殺対策 目行き届く体制整備を

 仙台市で、この3年間に中学生3人の尊い命が、自死で失われました。いじめが原因とみられ、市教委と学校現場は、マスコミや市民からの批判の渦中にあります。直ちに何かしらの「対策」を行う必要に迫られてのことなのでしょうが、市教委の対応は対症療法的なものにとどまっているとの印象を免れません。
 「アンケートによるいじめの早期発見、早期対応」「夏休み前半までに全ての生徒との面談」などを学校に求めています。これは短期的・限定的には効果もあるでしょう。しかし、長期的で持続可能な方針がないまま対応の強化を求め続けることは、現場をさらに疲弊させ、逆効果になりかねません。
     ◆    ◇    ◆    ◇

 子どもたちは自分を取り巻く環境の中で、多かれ少なかれストレスを抱えています。こどもたちがさまざまな活動を集団で行う学校では、人間関係のトラブルは日常茶飯事です。学校ではそうしたトラブルや悩みに対し、教職員が臨機応変に対応しています。多くの学校では休み時間にも教職員が廊下で過ごすなどの活動も日常的に行われています。誠心誠意、子どもたちに向き合っています。
 アンケートや面談を強化すれば、早期発見は期待できるでしょう。しかし、生徒が不登校や別室登校になった場合でも、教職員の数が少ないため、長期的に丁寧な対応をし続けることは難しいのが実情です。保護者が教員の忙しさをみて、相談したいのにためらうこともあるほどです。
 保護者や生徒からの相談希望が急増しているスクールカウンセラー(SC)が週1日しか学校にいない状況も問題です。SCが常駐するようになれば、子どもたちの心のケアも早い段階から可能になることは間違いありません。
 また、親子間のトラブルなどに対応するためのスクールソーシャルワーカー(SSW)の増員も喫緊の課題です。現在、仙台市に5人しか配置されていないため、各学校は相談したい事案をたくさん抱えながらも遠慮している実態があります。子どもたちへの支援体制は明らかに不十分です。
 マスコミも学校現場の異常な労働実態を取り上げています。仙台市の学校でもいつ教職員が倒れてもおかしくない状況です。条件整備抜きの取り組み強化は限界に近づきつつあります。学校に求められているのは、ゆとりとアットホームな雰囲気です。子どもたちが楽しく過ごせる学校が理想です。私たち教職員自身が人権感覚をさらに磨く努力も大事でしょう。
     ◆    ◇    ◆    ◇
 教職員が時間的にも精神的にもゆとりを持つことで、生徒と気軽に声を掛け合えるような温かい人間関係づくりを進めることが大切です。そのためにも一人一人に目が行き届く少人数学級の実現やSC、SSW増員、フリーの教職員の加配など、長期的視野に立った条件整備が早急に求められます。
 マスコミには、学校での取り組みや課題をリアルにつかみ、学校が良くなる方向で市民と教職員が協働できるように、力を貸してほしいと思います。

  いのちを守り、はぐくむ教育の場が、いのちをすり減らし奪う場になってはいけません。しかし残念ながら、今の学校は、子どもたちのみならず教職員も命をすり減らす場になっているようです。1990年前半は1,000人前後で推移していた教職員の精神疾患による休職者は、その後年々急増して今や5倍の5,000人を超えています。

 この7月発行の『センターつうしん』87号の中には、日々の授業準備もままならない学校現場の現状と厳しさが、次のように綴られています。

 授業の質は教師がその教材をどれだけわかっているかに規定されるので、ー(中略)ー 教師自身の深い学び(教材研究と実践検討)が必要となる。しかし、校内諸会議・提出文書作成、アンケート集計、学力検査分析・集金業務・生徒指導・保護者対応・研修・〇〇教育の追加(例えば環境、食育、防災、いのち、自分づくり、エネルギー等)などが、教科教育にかける時間を奪い、長時間過密労働が常態化している学校現場でそのような教師の学びを期待することは極めて難しい。

 子どもたちが朝登校し下校するまで、教師はほとんどの時間を子どもたちと過ごしています。ですから、上記のさまざまな仕事のほとんどが、子どもたちが帰った放課後にならざるを得ません。一番時間をかけたい授業準備や子どもへの対応・支援が二の次、三の次にされてしまっているのが現状です。

 新聞やテレビなどでも、様々なかたちで教師の仕事のあり様が問題になり始めています。学校は、子どもたちが学びを通じてヒトから人へと成長する場です。同様に、教員も日々子どもと向き合う中で教師へと成長していきます。

 教師や学校のおかれている現状、その中で今何が課題となっているのか。そして、どう子どもたちと向き合うことが求められているのか。そのために何ができるのか。私たち一人ひとりに問われているように思います。( キヨ )

『夏休みこくご講座』に向けて

 今週はじめ、8月6日(日)に行う『夏休みこくご講座』の打ち合わせをしました。主には当日の役割分担を含め、夏休みの講座をどんな講座にしたらよいかの話し合いです。
 毎回、打ち合わせの中心を担ってくれている千葉建夫さんが、夏の講座で扱う1年生の『スイミー』について、教科書と実際の絵本では、どこがどう異なっているかを比較した資料(一覧)を作成してきてくれました。教科書の『スイミー』は、教科書という制約がいろいろあるから仕方ないのかもしれませんが、ずいぶん絵がカットされています。その一方で、文章の方は、絵本の『スイミー』とは異なる語句が使われていたり、新に加えられていたりしていました。分量としてはわずかですが、語句が補足的に変わったり、付け加えられていることにはびっくりです。こういうことって、著者の許可とかそこら辺はどうなっているんですかね。教科書ではOKなんでしょうか。
 そんな資料を見ながら、しばしみんなで意見交換を行いました。単なる教材解釈に終わらず、比較することでみえてくる絵本の魅力や工夫、子どもたちにとっての「スイミー」のおもしろさなどの話にもなりました。もちろん、この資料も、夏休みのこくご講座では、参加者のみんなにも配布する予定です。ぜひ楽しみにしていてください。

 ちなみに、午後の下学年グループでは『スイミー』の他に、あまんきみこさんの『名前を見てちょうだい』(小学2年)も扱います。

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自然の猛威を前に ~九州の豪雨被害から~

 ここ毎日、福岡・大分を中心にした九州の広域で、その地の人たちが「過去に例がない」と口をそろえていう豪雨とそれがもたらす川の氾濫・土砂崩れについてのニュースが報じられている。現地の様子は本当にすさまじいものだ。

 このようなニュースは、岩手県境の北上川沿いに育った私に、戦後毎年のようにつづいた、小・中学生時代の川の氾濫を昨日のことのように思い出させる。
 当時の台風には、台風まで占領下にあったということか、カスリーンとかキテイとかと外国女性の名がつけられていた。
 名だけが優しさを装っていても、台風はそのたびに子どものわれわれを震え上がらせた。いつもはきれいに澄んでいて、メダカと一緒になって泳いでいる水の楽園が一夜にして逆巻く濁流に変身するのだ。
 なぜ戦後すぐに、北上が荒れたか、大人たちはそろえて「山の木を伐りすぎたからなあ」とか「人手がなくて山の手入れをしなかったからなあ」と言っていた。戦地から帰ってくる若い人たちの遺骨が増えるごとに、山は荒れ放題になり、小学生の私たちまで農家の畑の草取りがつづいた。毎日の学校帰りにちょっと山に入るだけで竹串いっぱいに採れていたキノコもしだいに採れなくなってきた。 

 そんな子ども体験が体にはりついているので、簡単に山を崩してしまうブルドーザーやダンプカーは快く見ることができない。今も3・11被災地に行って防潮堤用の土を運ぶ列をなして走るダンプを見ると、口には出すことはしないが、自然のバランスの崩れが心配になり、その後の山の手入れを考えているのだろうかと心配が増す。 

 話をもどす。私たちは、川が増水してくると、大事な荷物を2階に上げて、すぐ傍の堤防の上に避難するのだった。この堤防への避難については、なぜ川にもっとも近い堤防だったのかは、その時も今もわからない。「子どもは寝ろ!」と言われても、濁流が時々白い牙を見せたりうなりをあげたりするので、とても眠れたものではない。一時は、水が、堤防の低い箇所から内側に入り始めて大騒ぎしたこともあったが、奇跡的?に難を逃れることができたのだった。

 上流からさまざまなものが流れてくることも毎度で、家がまるごとということも何度もあった。それらのほとんどは、私たちのいる対岸の流れがつくっている渦に巻き込まれ、少しの間をおいてバラバラにされ、粉々にされた破片が水中から飛び上がってくる。ある時、子どもまでが水中から吹き上げられ、切り立つ崖の上に投げ上げられ、奇跡的に助かったということがあった。後でわかったことだが、3年生ぐらいで、岩手の一関市から流されてきたのだった。

 その子を見つけたのは、その崖まで広がる果樹園をもっている私の叔父だった。その後、その子(と言っても今は80歳近いと思うが)は、叔父の生前は欠かすことなく年に一度は挨拶に来つづけ、叔父が他界した後の今も顔を出すという。その話を聞くたびに、自分が奇跡的に助かった(助けてもらった)ということの礼ではあろうが、その人自身のもついのちに対する尊厳を忘れることがない行為を感じいい話だといつも聞いていた。 

 「自然」はいろんな暴れ方をする。私は、そのたびに呆然と立ち尽くすだけだった。今でもどうにもならないと思っている。だから、原発について「ここは安全だ」などという言葉は全く信じないし、いかに科学者といえども横着すぎると思う。
 自然を循環という視点で考えれば、「自然」にたたかれても仕方のないことを人間は平気でやりつづけている。あまりにも愚かだ。
 つねに私たちは「自然」の中の一員であり、「自然」に生かされているという謙虚な態度をもちつづけていきたいものと思う。( 春 )

『2017夏休み こくご講座』案内

 少し前のdiaryで、今年も開催することをお知らせしていた『夏休み こくご講座』。内容も決まり、チラシも出来上がりました。

 夏休みは、日頃できないことを始めたり、自分の興味・関心を広げたりするよいチャンスです。心とからだのリフレッシュに、夏休み以降の授業のために、是非ふるってご参加下さい。お待ちしております。

 2017夏休みこくご講座

◆日時:8月6日(日)
     午前の部 10:30~12:00  午後の部 13:00~16:00 

◆場所:フォレスト仙台ビル2F ホール   参加費:500円

 午前の部は、40年にわたって自宅を開放し家庭文庫の活動をされてきた松尾福子さんに、「文庫で出会った子どもたち ~絵本・文学の世界に子どもたちを誘って~」と題し、読み聞かせなどの魅力や面白さ、またそこで出会った子どもたちについてお話していただきます。

 午後の部は、国語の教科書教材をもとに、話題提供者の話を糸口にして教材作品をどう読み、そしてどんな授業にしたらよいか?
 2つのグループに分かれて、みんなでわいわい話し合います。なお、それぞれ以下の教材を扱う予定でいます。

 ・下学年グループは、「スイミー」と「名前をみてちょうだい」を扱います。
 ・上学年グループは、「海のいのち」と、教科書に載っている詩を扱います。


※)1日参加も、午前・午後どちらかの参加も可能です。
  教職員に限らず、保護者の方や文庫活動などをされている皆さんも、
  ご参加下さい。お待ちしてます。

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まずは学校での解決を(河北新報『持論時論』)

 少し前に春さんの持論時論をdiaryに掲載しましたが、今度は、講演会や学習会などに参加くださっていた高橋幸子さんの投稿(河北・朝刊6月21日付)が取り上げられました。紹介いたします。

  仙台のいじめ自殺 まずは学校での解決を

 仙台市内で続いた3件の中学生自殺問題で、奥山恵美子市長が市長部局に第三者調査機関を新設するという本紙記事(5月25日朝刊)を読みました。市長主導・・・それだけでいいのでしょうか? 新聞を読む限りでは、担任の先生といじめに遭った生徒さんの関係がどうだったのか、互いに信じ合えていたのかと、疑問を持ちました。
     ◆    ◇    ◆    ◇
 私が教師をしていた時は、担任するクラスの子どもはわが子のように世界一かわいい子、失敗するのは私が至らないせいと考え、私の至らない原因は何かしらと考えました。そのような考え方ができるようになったのは、悩みや問題を感じた時、職場の同僚に即打ち明け、先輩の助言をいただいたり、労働組合で学習会を積み重ねたりした結果だと思います。

 若い頃、漢字練習の宿題に丸付けをしていた時、読みづらい字で毎回2,3ページ書いてくるノートを見て「何でこんな字で2ページも3ページも書くのかしら。1ページを丁寧に書いた方が・・・」とぶつぶつ言っていたら、隣のベテランの先輩が「いやあ、こんなに頑張って書いてきてるんだから、その努力に花丸を付けてあげさいん」と言います。

 「この字に花丸なんてあげられません」「いいから花丸あげてみさいん」。渋々花丸を付けて翌日渡しました。そうしたらその子は「やったあ、先生から花丸もらったあ」と、みんなにその花丸のノートを見せて歩いたのでした。喜びいっぱいの姿を今でもはっきり覚えています。その子はどんどん字が上手になり、書き初めの代表候補に上がるほどに変身しました。

 それ以来、頑張ったことを見つけては、きちんと認め褒めるという姿勢が、少しずつ身に付きました。失敗は温かく許し、いいことをしたらノートや連絡帳に花丸を付けて、保護者にも子どもの努力が伝わるように工夫しました。

 子どもを一度たたいたことがありました。その時は「おうちの方に、私にたたかれたことを話して。私もお母さんに、たたいてしまったと電話を入れますから」と言いました。すると子どもは「僕が悪いからいいです」。「どこが悪いと思うんですか」と、子どもと話し合いました。

 同僚にも校長先生にも伝えました。校長先生は「保護者から連絡があったら、俺も責任取るから」と、一緒に考えてくれました。

 学級で問題が起きたら、担任と子どもと保護者、さらには職場の同僚や校長先生とすぐに取り組んで、学校で解決することが大事です。だから、いじめ問題を行政トップの市長主導で、というのはいかがなものかと思います。
     ◆    ◇    ◆    ◇
 同じ日に、連載「みやぎ考 17宮城知事選」④「広がる学力格差、遅れる子どもへの支援-教育環境不均衡続く」という記事も載っていました。先生方が余裕を持って丁寧に指導でき、子どもたちは安心して学べる環境づくりに、県、市ともに今すぐお金を十分出してほしいです。「子どもは宝」という言葉が本物になるように。子どものかけがえのない命を守るために。

  投稿を読みながら、幸子先生が地域や保護者の方々と手を繋ぎ協力し合いながら、さまざまな授業づくりをされていたことを思い出しました。

 続いている中学生の自死に心を痛めながら、その解決のために何が必要なのか、できるのか。一人ひとりの思いや取り組みを出し合い、話し合うことが、まずは大切なのではないでしょうか。そのようなことのできる職場や学校であることが必要です。
 教育行政は、そのために何ができるのか。その条件整備に是非とも力を入れてほしいと思います。( キヨ )

文科省と道徳と、そして忖度をめぐって

 森友学園加計学園、どちらも総理近辺が絡む大変な問題だが(本人たちは至ってそうは思っていないようだ。そこが恐ろしい)、しかし未だに真相はみえてこない。真相はみえないが、国会周辺で繰り広げられている大人たちのやり取りを見ていると、この社会のいじめの縮図や、子どもたちに道徳教育が必要だとその必要性を訴えているはずの偉い方々の醜態だけは十分みえてくる。なんとも悲しいことだ。

 森友学園の籠池さんのところには、少し前に大阪地検の家宅捜索が入った。それに対して国策捜査だと籠池さんは噛みついた。一方、加計学園の方は、ほとんどこの問題について当事者であるにも関わらず発言を控えている。誰かからのアドバイスでもあったのだろうか?(しかし、『文春』の下村博文元文科大臣への政治献金疑惑については、早々にコメントを出した。この早々の対応も逆に怪しく見えてしまうのですが)。

 両者の対照的な立ち振る舞いを見ている子どもたちは、きっとその経過から、ああやっぱり強い者には従えだよなあ。楯を突いたらろくなことにならない。余計なことは言わないで、見て見ぬ振りで通さなくちゃ、そうしないと大変なことになる。子どもたちはそういうことを暗黙のうちに感じて、ちゃんと学ぶ。

 来年から小学校で教科に格上げされた(?)道徳の授業が始まるが、よもやこのような価値意識を子どもたちに育てたいとは思っていないと考えたい。ただ一方で、文科省は、今回の道徳の授業のあり方について、「答えが一つではない課題を一人一人の児童生徒が道徳的な問題と捉え向き合う『考える道徳』『議論する道徳』への転換を図る」と述べている。とするなら、今回のこれらの出来事をうまく読み物としてアレンジ整理し、反面教師的に授業の教材として使うことはできるかもしれない。社会に蔓延するいじめの構図がみえてくる教材としては面白いのではないだろうか。思い起こすと、今回の道徳の導入のきっかけは確か「いじめ」だったよね。今の内閣府・官邸と文科省のやりとりを考えると、文科省の方は多いに賛意を示してくれるかもしれない。

 そうそう、その際に授業で学ぶべき内容項目のキーワード(徳目)は何になるのだろうか。「善悪の判断」「希望と勇気、努力と強い意志」「親切、思いやり」「相互理解、寛容」「公正、公平、社会正義」・・・。どのような視点から、どう子どもたちと向き合うかでいろいろ考えられそうだけど・・・。逆に焦点が拡散してぼけてしまいそうだから、いっそのこと新たなキーワードとして「忖度」も入れてみるのはどうだろうか。その方が、一つのキーワードでいろいろ考えられていいかも?

( キヨ )

戦争をなくす最良の方法

 第一次大戦後10年ほどたったころのことだが、デンマークの陸軍大将フリッツ・ホルムなる人物が、「戦争絶滅受合法案」という法律案をつくって各国要人たちに配布したという。その案文の全文は以下になる。

戦争行為の開始後又は宣戦布告の効力の生じたる後、十時間以内に次の処置をとるべきこと。即ち左の各項に該当する者を最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし。

一、国家の元首。但し君主たると大統領たるとを問わず、尤も男子たること。

ニ、国家の元首の男性の親族にして十六歳に達せる者。

三、総理大臣、及び各国務大臣、並びに次官。

四、国民によって選出されたる立法部の男性の代議士。但し戦争に反対の投票を為したる者は之を除く。

五、キリスト教又は他の寺院の僧正、管長、その他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。

上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦又は使役婦として召集し、最も砲火に接近したる野戦病院に勤務せしむべし。

 これは、「完本 一月一話」(岩波書店)からの転載である。著者は淮陰生。

 著者は、「これは、かつて長谷川如是閑らがつくっていた月刊誌『我等』の巻頭言に如是閑が書いたもので、フリッツ・ホルム大将など聞いたこともないから、ユーモリスト如是閑の戯文でないかと疑っている」と言い、「それはともかく、愉快ではないか」と加える。

 よんだ私も大いに愉快であり、何かの折に使いたいと思って付箋をしていた。この法律案が国連で批准されることがあれば、世の中から戦争はなくなることまちがいない。平和な地球実現にこれを超える案はないのではないか。

 (いつか使いたい)と思っていたのだが、キョウボウザイが実施されると、こんなことを書くことで、身が危うくなるのではないかと心配になり、急いで知らせておこうと思った。

 この法案に関して思ったことは、如是閑のようなペンで闘う知識人・ジャーナリストが増えてほしいということである。如是閑らの月刊「我等」は数千部しか出なかったが、知識人たちの良心の砦として渇仰の的だったらしい。活字は読まれないと言って諦めていてはいつまでもいろんな場面での「戦争絶滅受合法案」は創造されない。( 春 )