mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

忠良さんの「緑の風」は、いま・・・

 年明けのdiaryに、台原森林公園にある佐藤忠良さんの彫像「緑の風」について書いて写真も載せましたが、あっという間にもうすぐ4か月が経とうとしています。早いなあ。台原森林公園の桜も咲いて、ここ数日の強風で散ってしまっただろうか。( キヨ )

 春の台原森林公園と、「緑の風」です。

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   春の風
               
 わたしの頬に きてさわる       わたしの窓を きてみがく
 やさしい風の ゆびさきに       やさしい風の ハンカチに
 花のにおいが しみている       きんのひかりが はねている
  ああ おかあさん もうきている    ああ おとうさん もうきてる
  いつかの丘に あの道に        いつかの山に あの空に
  春 春 春が もうきてる       春 春 春が もうきてる

 わたしの耳に きてならす
 やさしい風の おんがくに
 小鳥のうたが ながれてる
  ああ おねえさん もうきてる
  いつかの川に あの岸に  
  春 春 春が もうきてる

 

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      アリ

     アリは
     あんまり 小さいので
     からだは ないように見える

     いのちだけが はだかで
     きらきらと
     はたらいているように見える

     ほんの そっとでも
     さわったら
     火花が とびちりそうに・・・

            (どちらも、まどみちおさんの詩 です)

平和、友好に必要なのは ?

 4月19日の新聞(朝日)に、「内閣府のホームページから災害教訓の報告書を、関東大震災時の「朝鮮人虐殺」記述への批判の声が多く削除した」という記事が載っていた。こういう記事を見たり、話をきいたりするたびに憂鬱になる。なぜもっと仲良く生きていけないのか。

 テレビは連日、北朝鮮とアメリカとのきな臭い話がつづいている。そのさなかアメリカの副大統領が来日。「平和は力によってつくられる」と言ったとか。『平和』について私のもっているイメージとのあまりの違いにあきれてしまう。

 これらのことが私に、以前読んだ心地よい話を思い出させた。

 辰濃和男さんのエッセー(2000年出版)の中にあった「ドイツ兵捕虜の遺産」で、四国遍路一番霊場霊山寺の近くにある「ドイツ館」にまつわる話である。
 著者は、その初めに次のように書いている。 

 「国際交流」とか「民際交流」とかいう言葉がはやらなかった80 年ほど前の話だ。このドイツ館のあたりで、捕虜だったドイツ人と土地の人の間に通い合う友愛があった。

 当時のドイツ兵捕虜のひとりがのちに土地の人に手紙を書いている。 

「私たちは捕虜でした。皆さんは戦勝国の国民でした。にもかかわらず私たちは心を通わせ、強く結ばれていました。友愛という一つの心に」

この話は、どういうことなのか、簡単に説明する。

 第一次大戦において、中国での5,000名近いドイツ兵の捕虜を国内に送り、この霊山寺近くの収容所には約200名、やがて1,000名にまでなり、約3年間暮らすことになる。

 収容所の所長は松江陸軍大佐。松江は捕虜にかなりの自由を与えた。小さな別荘を建てることも許した。遠足もあった。途中での水浴び、水泳も黙認した。水泳大会を開くこともあった。所内にはボーリング場もあった。オーケストラも編成された。土地の青年たちで楽器を習いたいという希望が出て、「音楽教室」ができた。菓子職人だったドイツ兵が土地の人に菓子つくりを教えた。その他いろいろの交流があるが略す。
 土地っ子たちは、親しみをこめて捕虜たちを「ドイツさん」と呼び、ドイツさんとよく遊んだ。
 捕虜のひとりは、「松江所長が私たちに示した寛容と博愛と仁慈の精神を私たちはみな決して忘れない」と言ったという。

 第2次大戦後、引揚者のひとりが雑草に覆われたドイツ兵の墓を見つけ、十数年、花を供えつづけた。それを新聞で知ったドイツ大使が墓参りに来た。それがドイツの新聞に載り交流が再開、「ドイツ館」が建つまでになったという。

 いい話だ。私にこの話を教えた人はいない。辰濃さんの本を読まなければ知らずに終わったことになる。

 えっ? 松江大佐はどうなったって? そこには触れずに終わりにしたかったのに。
 仕方ない。辰濃さんが書いている文をそのまま書き写す。 

 松江大佐のような人は、軍隊では異端者だったのかもしれない。大佐はまもなく少将になるが、49歳で予備役になる。この人事に不満を抱く多くの部下が陸軍省に抗議しようとしたのを松江少将は制止したとも伝えられている。

*「大佐」の定年は55歳、「少将」は60歳ではないかと思う。「予備役」とは退役者をさすので、昇進させながら退役させられたということになるように思う。残念なことだが、それでも、その措置に「不満をもつ多くの部下がいた」ことは救いになる。( 春 )

連続テレビ小説『ひよっこ』と、あいさつと

 4月からNHK朝の連続テレビ小説「ひよっこ」が始まった。物語は、茨城県の北西部にある山あいの村・奥茨城村で農業を営む一家を中心に、1964(昭和39)年の東京オリンピックが目前に迫った秋からはじまる。主人公の谷田部みね子(17)は、天真爛漫な高校生。不作の年に作った借金を返すため、父は東京に出稼ぎに行っている。みね子は父親が大好きなのだが、父は行方不明に。母は、みね子に心配させまいと、黙って東京へ夫を探しに行くが見つからず。今後どのような展開になってくのだろう・・・。

 さて、仕事で毎日ちゃんと見られるわけではないけど、たびたびドラマの中で交わされる「行ってきます」「行ってらっしゃい」、「ただいま」「お帰りなさい」というあいさつが、なぜか気にかかる。どうしてだろう?と思っていて気がついた。毎日の何げないあいさつが、実はこのドラマの隠し味なのではないかと。

 ドラマで描かれるのは、農村部から多くの男たちが出稼ぎ労働者として、あるいは中卒・高卒の若者たちが仕事を求め金の卵として故郷を後に都会へと出て行った時代だ。帰るべき故郷(ふるさと)を後に、必死に高度経済成長という特異な時代のなかを人々が生きた。「行ってきます」「行ってらっしゃい」、「ただいま」「お帰りなさい」というあいさつは、単に毎日交わされるあいさつという意味だけでない、このドラマが描く時代の有様や思いをさえ象徴し映し出しているのだ。

 あいさつが、ある時を象徴するという点では、震災のときもすごかった。知っている人に限らず、見ず知らずの通りすがりの人や買い出しで並んだ行列の人などとも「おはようございます」「こんにちは」「お宅は大丈夫でしたか」「お気を付けて」「今日は寒いですね」など、様々なあいさつが自然に交わされた。私も地下鉄が自宅の最寄り駅まで来ないため、しばらく2駅先まで歩いたが、その間に行き交う人とあいさつを交わして歩いたのを思い出す。そのうち顔見知りになって、お互い会わなかったりすると気になったりするようにもなった。

 あれから6年、日常生活の中からは震災の痕はほとんど感じられなくなった。それとともに、あいさつも消えた。あいさつが、単に日々の習慣やきまり、礼儀としてだけでなく時代の有り様や人々の思いをも映し出すのだとしたら、今の時代はどのような時代なのだろうか。そんなことをふと思った。(キヨ)

教育講演会のご案内

 ゴールデンウイーク初日の4月29日(土)、新年度が始まってちょうど1ヶ月、疲れもたまってゆっくり休みたい!、一息つきたいというところだと思いますが、2020年度から導入される改訂学習指導要領について名古屋大学の中嶋哲彦さんを講師に学習講演会が行われます。

 今回の改訂では、①子どもの学ぶ「量」も「質」も追及され、②「何を学ぶか」だけでなく、「どのように学ぶか」が重点となっていること、さらに③道徳の教科化や、英語教育が本格的に小学校に導入されるなど、学校教育のあり方が大きく変わると言われています。今回の学習指導要領改訂で、子どもたちの日々の生活や成長・発達はもちろん、学校現場はどうなっていくのでしょうか。

 アメリカのシリア空爆以降、北朝鮮問題などで「森友学園問題」に関するマスコミ報道は下火になってきていますが、実際には何も解決していません。報道で映し出された「教育勅語」の暗唱や運動会の様子にびっくりした人も多いのではないでしょうか。あのような教育や指導は、ほんの一部の特異な学校だけと思われるかもしれません。しかし、今回の幼稚園学習指導要領改訂のなかでは、幼児期の終わりまでに育ってほしい子どもの姿として「国旗が掲揚される様々な行事への参加や、運動会などの行事において自分で国旗を作ったりして日常生活の中で国旗に接し親しみを感じることにより、日本の国旗や国際理解への意識や思いが芽生えるようになる」ことがあげられています。このようなことを考えれば、森友学園の取り組みを対岸の火事として見ることはできないかもしれません。

 今回の学習指導要領改訂が、子どもや学校現場にどのような問題や課題をもたらすのかを学び、ともに子どもたちの健やかな成長と発達を育むために、何をこそ大切にしていかなければならないのか。みなさんで考え合いたいと思います。ぜひ、ご参加ください。

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始業式に願う

2週間ぶりに家の前をランドセルを背にした子どもたちが歩いて行く。今日、仙台は小中学校の始業式である。
  3月のある日、センターに教え子であるKさんが来室。この4月から仙台市の小学校の教師になることが決定したとの報告だった。彼は学生時代からセンター主催の学習会にも参加したことがある。
 Kさんは今日、どのような気持ちで子どもたちの前に立ったのだろう。担任発表は子どもたちの視線が集中する瞬間でもある。
 この時期になると思い出すことがいくつかある。その一つに、40数年も前、新採で県南の僻地の小さな学校に赴任した2日目の事件がある。青空が広がり、南蔵王の不忘山が手に届くかのように教室の窓から見える。3時間目の社会科の授業で「学校の周りを探検に行こう。歩きながら町のことを教えてね」というと歓声が沸き上がる。「こっちに行くと役場だよ」「この信号機、去年初めて町にできた信号だよ」「あそこがオレの家」「ふきのとうだ。先生、これ食うとうまいよ」「んだ、んだ、天ぷらがうめえ」などなど、次々と話しかけてくる。30分も町中を歩き教室に戻ろうかという時に、その事件が起きた。小走りに先頭を歩いていたS君が坂道の土手を駆け上がりこっちを振り向きざまに滑り落ちたのだ。側溝のブロックに頭をぶつけたのか、額から血が流れている。意識はあるが、自分の方がおろおろしている。おんぶして学校にもどっていくと、教頭と養護教諭が走り寄ってきた。現場で傷口を確かめたり、おろおろしている間に、N君が真っ先に知らせに走ってくれていたのだった。町のたった一つの小さな診療所(医院)で2針縫って収まった。収まったというのは、何も問題にならなかったということだ。今では信じられないことだろう。教育計画にあるのか。事前に校外にでる許可はとったのか。指導案はどうなっているかなどなど、やかましいくらいに責められるに違いない。
 Kさんも、これからいろんな場面に出会うに違いない。一人で抱え込まず、近くの同僚に相談することも大切だ。学びながら成長する教師になって欲しい。<仁>

4月5日 自分を少しでも広げたい 

 どうしたことだろう、(こんなに生きるとは・・もういつお迎えがきてもいい)と思っていたのが、先日、Tさんへの便りに「できればもう2~3年生きて もう少し本を読みたい」と書いてしまった。

 書棚には読んでいないものがたくさんあるのだが、そのためではない。古本屋でゆっくり時間を使えるようになってから、これまで手に取ってみることのなかったものにまで目を通すことが多くなったことによるようだ。 

 そうやって買い込んできている本が机に山となり始めている。なんと、まだ生きたいなんて恥ずかしい気もするのだが、できればこの山を崩すことで知りたいことがでてきているのだ。

 たとえば、この山の中で今西錦司さんが、次のようなことを言っていた。

 進化論からみた文明批判でもっとも問題になるのは、、現代の文明が競争原理でできていることなんです。競争原理が人間の個性をだめにしている。自然淘汰や適者生存という考えを認めるかぎり、競争原理はつづくかもしれない。

 競争原理ではなく、「共有原理」にならなければならないというのが、私の考えです。それが生物界の原理でもあるんです。

 二つの種社会が棲み分けをとおして、相対立しながらも相補うことによって、お互いにお互いを成り立たせている。この二つの社会は対等なのであって、私はこれを「同位社会」と呼ぶ。この同位社会では、競争というものはないんです。相対立し、相補うという関係、これが共存原理なんです。~~

 私は、教師として、ただ感覚的に競争はダメだと思いつづけてきた。この今西さんの話は半世紀近くも前の話で、もっと学問はすすんでいるのかもしれないが、それでも「競争原理は人間の個性をだめにしている」に変化はないだろう。学校という狭い世界のなかで感覚的にだけ動くのは大いに危険だ。そのうえ、退職後も、その延長上で生きてきたのだから。しかも、「世の中の進歩」は、人間を、今西さんの取り上げる生物の世界からどんどん離しているのだから・・・。

 そんな私は、今西さんのことばに自分の中のカスミがスウッとはがれるようだった。もちろん競争原理と個性の問題に限ったことではない。
 できたら、狭すぎる自分を少しでも広げたい、(そのうえで・・・)とつい欲張りになり、(できればもう2~3年・・・)などとTさんについ書いてしまったのだ。( 春 )

3月25日 師の目にも涙、に想う

 先月9日の朝日「折々のことば」は、「こちらが涙の目で睨みつけている師の目にも、そのとき涙が光っていた。 高橋和巳」だった。
 出典は、杉本秀太郎「洛中生息」とあったので、すぐ万葉堂書店に探しに行ったが、見つけることができなかった。 

 なぜ、このようなこだわりをもったかを述べる。
 私の枕元には、10数冊の本と1冊の国語辞典がいつも積んである。それらは、ときどき入れ替わるものがあれば、何年も変わらないものもある。
 しばらく変わらないものの中に、「漢詩一日一首 春・夏・秋・冬」(一海知義著)の4冊本がある。その著者一海さんの書かれた「読書人漫語」に、先の高橋和巳さんのことが載っていたことを思い出したのだ。

 一海さんは、新制大学大学院、京都大学中国文学科博士課程のたったひとりの進学者だった。師は吉川幸次郎さん。研究室に入れば一切日本語を用いてはならないという約束があったという。
 「翌年、高橋和巳が、これまたひとりだけだったが進学して来たので、いささかほっとした」と書いていたことを、「折々のことば」をよむことで思い出し、高橋和巳の「涙」がどんな涙であったのか想像できた。

 しかし、高橋和巳も大いに驚いたから杉本秀太郎さんにそのときのことを話したと思うのだが、「師の目にも、そのとき涙が光っていた」には私も大いに驚いた。

 そして自分の学生時代を思い出した。ドイツ語のK先生が浮かんだ。でも受講生が何十人といたので体を丸めて時間をしのいだ。もし1対1だったら・・・、想像するだけで苦しくなる。教える・学ぶという関係のなかで、少なくとも自分は、高橋和巳のように厳しい師を涙を浮かべて睨むような学びをしなかった。

 また、小さい子どもたち相手のキョウシであった自分が過去のこととは言え、どうしたらよく教えられるか、子どもと涙目で悩み向き合うことはなかった。

 自分がとても恥ずかしくなる「折々のことば」だった。( 春 )