mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

4月5日 自分を少しでも広げたい 

 どうしたことだろう、(こんなに生きるとは・・もういつお迎えがきてもいい)と思っていたのが、先日、Tさんへの便りに「できればもう2~3年生きて もう少し本を読みたい」と書いてしまった。

 書棚には読んでいないものがたくさんあるのだが、そのためではない。古本屋でゆっくり時間を使えるようになってから、これまで手に取ってみることのなかったものにまで目を通すことが多くなったことによるようだ。 

 そうやって買い込んできている本が机に山となり始めている。なんと、まだ生きたいなんて恥ずかしい気もするのだが、できればこの山を崩すことで知りたいことがでてきているのだ。

 たとえば、この山の中で今西錦司さんが、次のようなことを言っていた。

 進化論からみた文明批判でもっとも問題になるのは、、現代の文明が競争原理でできていることなんです。競争原理が人間の個性をだめにしている。自然淘汰や適者生存という考えを認めるかぎり、競争原理はつづくかもしれない。

 競争原理ではなく、「共有原理」にならなければならないというのが、私の考えです。それが生物界の原理でもあるんです。

 二つの種社会が棲み分けをとおして、相対立しながらも相補うことによって、お互いにお互いを成り立たせている。この二つの社会は対等なのであって、私はこれを「同位社会」と呼ぶ。この同位社会では、競争というものはないんです。相対立し、相補うという関係、これが共存原理なんです。~~

 私は、教師として、ただ感覚的に競争はダメだと思いつづけてきた。この今西さんの話は半世紀近くも前の話で、もっと学問はすすんでいるのかもしれないが、それでも「競争原理は人間の個性をだめにしている」に変化はないだろう。学校という狭い世界のなかで感覚的にだけ動くのは大いに危険だ。そのうえ、退職後も、その延長上で生きてきたのだから。しかも、「世の中の進歩」は、人間を、今西さんの取り上げる生物の世界からどんどん離しているのだから・・・。

 そんな私は、今西さんのことばに自分の中のカスミがスウッとはがれるようだった。もちろん競争原理と個性の問題に限ったことではない。
 できたら、狭すぎる自分を少しでも広げたい、(そのうえで・・・)とつい欲張りになり、(できればもう2~3年・・・)などとTさんについ書いてしまったのだ。( 春 )

3月25日 師の目にも涙、に想う

 先月9日の朝日「折々のことば」は、「こちらが涙の目で睨みつけている師の目にも、そのとき涙が光っていた。 高橋和巳」だった。
 出典は、杉本秀太郎「洛中生息」とあったので、すぐ万葉堂書店に探しに行ったが、見つけることができなかった。 

 なぜ、このようなこだわりをもったかを述べる。
 私の枕元には、10数冊の本と1冊の国語辞典がいつも積んである。それらは、ときどき入れ替わるものがあれば、何年も変わらないものもある。
 しばらく変わらないものの中に、「漢詩一日一首 春・夏・秋・冬」(一海知義著)の4冊本がある。その著者一海さんの書かれた「読書人漫語」に、先の高橋和巳さんのことが載っていたことを思い出したのだ。

 一海さんは、新制大学大学院、京都大学中国文学科博士課程のたったひとりの進学者だった。師は吉川幸次郎さん。研究室に入れば一切日本語を用いてはならないという約束があったという。
 「翌年、高橋和巳が、これまたひとりだけだったが進学して来たので、いささかほっとした」と書いていたことを、「折々のことば」をよむことで思い出し、高橋和巳の「涙」がどんな涙であったのか想像できた。

 しかし、高橋和巳も大いに驚いたから杉本秀太郎さんにそのときのことを話したと思うのだが、「師の目にも、そのとき涙が光っていた」には私も大いに驚いた。

 そして自分の学生時代を思い出した。ドイツ語のK先生が浮かんだ。でも受講生が何十人といたので体を丸めて時間をしのいだ。もし1対1だったら・・・、想像するだけで苦しくなる。教える・学ぶという関係のなかで、少なくとも自分は、高橋和巳のように厳しい師を涙を浮かべて睨むような学びをしなかった。

 また、小さい子どもたち相手のキョウシであった自分が過去のこととは言え、どうしたらよく教えられるか、子どもと涙目で悩み向き合うことはなかった。

 自分がとても恥ずかしくなる「折々のことば」だった。( 春 )

 

3月23日 年度末を迎えて

「センターつうしん」86号と別冊16号がともに校了。31日午後の事務局会での発送作業を行い、何とかかんとか新年度早々に読者の手元に届けられる。

 つうしんでは、1月に開催した樋口陽一先生による高校生公開授業をとりあげました。参観記のような感想では貴重な話の内容をお伝えできないと思い、概要を載せることにしました。しかし2コマ130分に及ぶ授業内容を数ページにまとめるのは、なかなか辛い作業になりました。
 大事な部分もかなり省略したまとめ方となり、もっと詳しく知りたいという思いを読者のみなさんに持たせることになります。可能であれば、樋口先生とも相談し、ブックレットの形で残せればとも思いますが、日仏を行き来しながら研究活動をされている先生のことを考えると、今の段階では約束できないのが残念です。今回の概要も、樋口先生の手を通すことなく、私の文責でまとめた次第です。

 別冊16号では「宮城の教育遺産」15回目として、『生活科の教科書づくり』を春日さんにまとめていただきました。1988年の1月から動き出した『教科書づくり』の顚末になります。教科書採択の厳しい現実を知らされると同時に、2年間以上、ほとんど毎週土曜日、時には土日の合宿もあったという想像を超えるような作業から、教科書づくりに携わった方たちの熱い思いが伝わってきます。今でも、教室で、あるいはどこかの部屋の片隅で生かしてくれる人はいないものかと願うと報告をまとめています。うれしいおしらせが届くといいなあと願っています。

 さて、今年度も残すところあと数日です。学校現場にいたころよりは年度末という意識というか考え方はなくなりましたが、4月というのは正月と同様に、何かしら「よし、今度は・・・」とリセットする機会になるのは確かです。私の場合は、このダイアリーのコーナーに少しでも多く筆をとるというか、キーボードに向かうということからスタートしようと思います。  <仁>

お知らせ 第14回日本教育保健学会が仙台で開催!

 私たちの研究センターの取り組みに日ごろから関わっていただいている数見先生(東北福祉大)、千葉先生(宮教大)、山岸先生(宮城大)などが準備してこられた第14回日本教育保健学会が、今度の3月25日(土)、26日(日)の2日間、東北福祉大学ステーションキャンパスで開催されます。

 主な内容は、以下のとおりです。

 テーマ:教育保健研究・実践の進展をめざして

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◆3月25日(土)

 シンポジウムⅠ(9:40~12:00)
 「子どもの発達困難の現状と背景~その発達支援の課題をめぐって」
   
千葉先生と山岸先生がコーディネータをされます。シンポジストは医療、保育、
             学校関係者のみなさんにお願いしています。

 シンポジウムⅡ(13:00~16:00)
 「教育保健の課題ーケアと教育の統合的支援をめざす取り組み
   ~東日本大震災を乗り越える児童生徒の心の支援実践をめぐって」
   
数見先生がコーディネータをつとめ、シンポジストとして東松島の中学校で「命の授業」を
             行った制野先生(現・和光大学)や養護教諭の濱田先生 他の
みなさんが発言します。

 教育保健講座(16:10~17:30)
 「教育保健学・研究のこれまでとこれから」(プロジェクト共同研究中間報告)

 懇親会・情報交換会(18:00~20:30)

◆3月26日(日)
 一般演題発表
(9:30~12:00)

 特別講座(12:10~12:50)
 現代社会をめぐる若者の性の動向~医療現場から見た考察」
    村口喜代 院長(村口きよ女性クリニック)

 課題別セッション(13:00~15:30)
  課題Ⅰ「教育保健学のカリキュラムデザイン
       ー教職必修科目に位置づける健康・身体の教養とは」

  課題Ⅱ「教育としての学校保健組織活動(保健の自治的・文化的活動)検討」

  課題Ⅲ「養護教諭の仕事~“養護”をケアと教育の統合する実践の検討」

  課題Ⅳ「思春期における性的自立をはぐくむ性教育実践の検討」 

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   参加費 学会員・当日会員(4,000円) 教員・一般(2,000円)

       学生・院生(1,000円) 

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3月10日 夢と現実ー震災から6年を前に 

 いま、30年前の生活科教科書つくりのことを思い出しながら書いている。初体験であり、相当ハードな仕事だったので、時間が経っても鮮やかに残っていることがたくさんある。

 その中でも、際立っているのは、やはり「新設される生活科の教科書をつくりたい」と言った、現代美術社の社長・太田弘のことばの数々である。

 このことばに、自分では、長年努力して貯めこんできたつもりの教師としての貴重な財産をはぎ取られ、素っ裸にされたのだから。
 裸にされながら、(どうしてこのような人間ができあがったのだろう)というのが、いつの間にか、一番の興味にふくれあがっていった。
 しかし、仕事が終わるまでつかむことはできなかったし、彼は、さっさと「さよなら」も言わずに遠くへ逝ってしまった。
 「なんで!」「ばかっ!」と言ってももどることをしなかった。
 御殿場の霊園まで追いかけても何も言わなかった。

 彼は、教科書のパンフレットに、「『生活科』の先生へ -新しい教科をどう考えたか」を書いたが、その最後を、アンリ・ファーブルの「生物講義」の次の文で結んだ。

  歴史は、生命かけし戦場をば光輝あるものとみなし、
  生活の基たる耕地には侮蔑あるのみ。
  王ありてはその私生児の名に至るまで世に伝えしも、
  小麦につきては一言だに語ることなし。
  おろかなるかな、人のたどりきたりし道。

 太田に、「もっと言えよ!」とせつけば、「この言葉で十分だろう。」と返してくるのかもしれない。
 今も、なにも変わっていない。( 春 )

ジャン・ユンカーマン監督が仙台で講演!

 春さんなどが関わっている「テロにも戦争にもNO!を」の会のみなさんが、次のような講演会を開催します。

 戦後60年の節目に、映画『日本国憲法』でその意義を改めて問い、2015年の映画『沖縄 うりずんの雨』では戦後の沖縄の歩みをたどり、平和を求め不屈の闘いを続ける沖縄の人々の尊厳をつたえてきた ジャン・ユンカーマン監督 が、3月12日(日)13時30分、仙台で憲法と沖縄、そしてアメリカ」と題して講演を行います(事前予約はとっていないようですが、会場の定員は180名で、開場は13時とのこと。それぞれ各自の判断で来場を)。

 2月のアーサー・ビナードさんの講演といい、今回のジャン・ユンカーマンさんといい、外国の方々からの日本社会に向けた積極的な発言と行動が続きます。ぜひご参加ください。

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子どもの仕事、子どもの時間を考えるために

 1月のdiaryで春さんが、NHKの冬点描を取り上げました。地域の新聞配達をする中学生の姿と成長、それを暖かく見守り交流する地域の大人たちや親たちの様子です。春さんは、最後に「どこかでこれを自分の地域でもまねてみようなどと言ったらどうなるだろう。 ・・・こういう試みがなされる世の中に戻ることは、もう無理なのだろうか・・・」と述懐していました。正直、難しいんだろうなあ。今では隣に住んでいる人すら知らない、わからない世界があるのだから・・・。

 そんなことを思っていたら、今年の『教育』1月号で、「子どもが子どもである時間」という特集を組み、哲学者の内山節さんの論文『子どもたちの時間と現代社会―何が課題になっているのか』を掲載しました。テーマは「時間」ですが、文章の書き出しを「仕事を持つ子どもたち」という小見出しで始め、フランスのピレネーの子どもたちはみな、家庭で鶏の世話であったり薪割りであったり何らかの仕事を持っていて、そのことを誇りにしていると書いています。また人が成長するということは、家族や友人との関係、地域や自然との関係、さらには社会や文化との関係など「自分がかかわっていく関係の世界が広がること。・・・あるいは関係の多様性を獲得していくこと」であり、それは多様で豊かな時間を子どもが生き・創造することだと言います。内山さんの論は、では今の日本の子どもたちはどのような関係の世界を生き、時間を生きているのか?・・・へと進んでいきます。とてもおもしろく、考えさせられることがたくさんありました。ぜひ内山さんの文章そのものに当たって、お読みいただければと思います。

 関連で付記しますが、今ではキャリア教育(自分づくり教育)として多くの中学校が職業(場)体験を実施していますが、2015年の『教育』7月号に、フィンランド在住の藤井ニエメラみどりさんが、15歳の息子さんの職業体験について書いています。受け入れてくれる職場を自ら探し、交渉し、契約して2週間の職場体験をするという、日本と比べるとかなりハードな内容に感じますが、その分得るものもずいぶん違うだろうなと思ったりもしました。2ページという短いものですが、ぜひこちらも(キヨ)

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